仕事の休憩がてら、研究成果が上がらないとぐちぐち言う同僚たちとテレビを眺めていた。一回り小さい紙コップに、脳を活性化させるために甘めのロイヤルミルクティーを入れて、意味のない愚痴を聞き流しながらぼんやりと。
ここは最先端の臨床検査の現場。目新しい医療器具、医療機器を扱い、様々な医療検査や検体検査を行い、新しい医療機器の安全性を確認する現場。最新鋭のものを扱っているから、そうそう物事は上手くいかず、同僚たちの延々と繰り返される愚痴もいつものことだった。寒い日に呟く、意味のない「寒い」という発言に限りなく似ている。
『――ここで、臨時ニュースです。つい先ほど、地下鉄――駅にてフット軍団による立てこもりが発生。現場は騒然としており……』
「……えっ?」
「どうしたの、?」
紙コップを傾ける手が止まり、画面に釘付けになった。駅名を読み上げられたのは、つい先ほどまで電話していた母が向かった先ではないだろうか。つい数分前、電話をしてきた母が言っていたではないか。これから電車に乗るから切るね、と。
「は、母がちょうどこの駅に……」
「えっ!?」
「ど、どうしよう……!?」
「、電話! まずはお母様に電話!」
「あ、は、はい……!」
先輩に背中を叩かれて、茫然としていた意識が戻ってくる。
私は慌ててスマートフォンを取り出して、母にコールした。無事で会って欲しい、母の乗った電車は寸前で駅を出ていたのだと。
(お願い、お母さん! 出て、出て…出て……!)
聞きなれたコール音が繰り返し聞こえる。スマートフォンを握る手はやけに汗ばんで、意味もなく手が力んでしまう。
母に何かあれば、唯一の家族を失うことになる。そんなことは、耐えられない。
祈るような気持ちで、コールを待つ。母が出るまで、コールをやめる気はない。それくらいの気位で待っていると――
『はぁい、! 聞いて! 今、ママはヒーローに会って来たの!』
「お母さん! 無事……みたいだね」
『もうサイコーにかっこよかった! にも見せてあげたかったわぁ!』
「……えっと」
電話を越えたあちらと向こうで、明らかに温度差がある。それに戸惑いながら私は深呼吸を何度か繰り返した。
「ええと、待って。まさか、立てこもりに巻き込まれたの? 本当に?」
『そうなのよ!電車に乗ろうとしたら、ぶわーってフット軍団が入ってきて、怖かったんだから!』
「で、今は……?」
『今は駅の外よ。暗闇の中、電車と一緒にヒーローがやってきて、フット軍団を全員なぎ倒したの!』
「…………うん、で?」
言いたいことは山ほどある。聞きたいことも山ほどあるが、興奮した母とうまく会話のキャッチボールができる気がしなくなり、私はただ続きを促した。
『お母さん、なんか男運ないのよねぇ。近くのフット軍団の男、すごく乱暴者で、殴られそうになって……』
「えっ! 大丈夫だったの!?」
『そう! そしたら、その時に電気が落ちて、電車がぶわーってやってきて!』
恍惚とした母は、その時のことを思い出しているんだろうか。うっとりとした声色だった。
『フット軍団の男がバーンっ!って飛んで、倒れそうになったところをヒーローが後ろから支えてくれたの!』
「ヒーロー? どんな……?」
『ん〜、暗くてよく見えなかったけど、すっごく大きい人だったわ。7フィートくらいはあったの!』
「7フィート……」
『ゴーグルとか、メガネをかけていて、手はごつごつしててすっごくたくましかったわ……』
メガネをしていたのに、ゴーグルとは。矛盾を指摘したい言葉をぐっと飲み込む。
『そういえば、人にしては横幅がすごかったわねぇ。太ってるって感じじゃなかったけど』
「筋肉でムキムキってこと?」
『そうかも! 胸板はごつごつしてたもの!』
(どれだけ鍛えてるんだろう……)
『それで一言、「失礼、気を付けて」って! キャーっ!』
「あ、そ、そうなんだ……」
7フィートで、ごつごつしてて、筋肉質で、メガネでゴーグル。想像つかない。
でも、私にとってその人がどんな人だって構わない。だって、唯一の家族を救ってくれた恩人なら、どんな人物だろうが感謝するべきだ。今日は、名も知らぬその人に感謝を祈ろう。
『今度会えたら、お礼言わなくちゃ! それで、サインももらうのよ!』
「ああ、うん。そうだね。お礼を言わなくちゃ……」
母のヒーローは、私のヒーロー。
夢物語のような話に、浅い感謝をしつつ、私は安堵の息をついた。
* * *
私は、目の前の光景に息を呑んだ。
今日は何でも親会社のCEOエリック・サックスの特別な要請とやらで、私たちは彼の自宅へ出張へ来ていた。仕事は、彼の指示通りの仕事をすること。なんでも、特殊な生き物から体液を採取するとかなんとかで、最新鋭の医療器具を扱わなければならないとか。
機密保持の怖い書類に判を押させられ、妙に軍隊めいた私兵警備に案内された先には……
――4つ並んだ透明な特殊ガラスのケースの中に、3人の大きな人型の……亀。
「やぁ、来たね。君たちにはこの生き物の血液を全て採取していただきたい」
やたらと興奮した様子のエリック・サックスが、早口にそう告げた。
室内には、先日規定をクリアしたばかりの最新鋭の機器がそろっていて、いや、そんなことよりも私がどうしても気になってしまうのは……ガラスケースの中の、亀。
(まさか……)
その中でも、長身で機械をあれこれ背負った、紫のハチマキをした亀。
(身長が7フィートはあって、胸板がごつごつしていて、体の幅があって……メガネに、ゴーグル……)
同僚たちは、亀たち全員に目を奪われているかもしれないけれど、私だけは彼だけをただ見つめていた。私がじっと見ていたせいか、彼もまたちらりとこちらを見る。不意に、視線が交わった気がした。
(見つけた、マイヒーロー……)