01 飽きるほどの夕焼け



 見上げる空は、どこまでも広い。
 そんな、普段考えることのないようなことに思いを馳せてしまうほど、私は途方に暮れていた。

 別に、ファンタジー小説のようにどこかの異世界に飛んでしまったわけでもない。突如として見知らぬ妖精が現れ、怪人と戦えと強要されたわけでもない。
 ただ、見上げた空に浮かぶ陽は傾きかけて少し眩しくて、それを遮ろうとして目のわずか上にかざした手が少し透けているくらいだ。見事なまでに半透明の手のひらの向こうには、夕暮れを告げるカラスが空を飛んでいるさまが見える。

(……眩しいなぁ)

 この現象に気づいたのは2週間も前のこと。そして私の記憶も、2週間前から始まっている。
 体を透かして見える景色は、覚えのない二車線道路の脇にある歩道。歩道を挟んで道路の反対側には、夕陽が水面に映るの小さな川が流れていた。そして何より重要なことは――その歩道のガードレースの下にある、小さなビンに挿しこまれた一輪の花。

(死んでるんだろうなぁ)

 驚くのも、戸惑うのも、泣くのも、嘆くのも、この2週間で全てやりつくしたのでもうやることがない。
 どんな無様な顔をさらそうと、どんな大声で泣きわめこうと、幽霊の私は誰にも気づかれることがない。
 通りかかる人に無視をされ、いないものとして扱われる虚しさに――最後に残ったのは『諦め』だった。

「……ヒマだ」

 夕陽を眺めるのももう飽きた。かといって記憶がないので、どこに行っていいかもわからない。
 歩道を歩く一人の女性が可愛らしいチワワと歩いているのを見て、私は地面に寝転がりそれを至近距離で眺めることにした。
 なに、恥じらうことはない。どうせ誰にも見えてないのだから、地面に寝転がったところで恥にはカウントされないさ。

「お、おい! 誰か倒れてるぞ!?」

 背後から上がった声に、私は寝転がったまま辺りを見回した。私の他に、陽の出ている明るい時間帯から石畳に倒れ伏しているような人間が他にいるだろうか。

(まさか……)
「おい、アンタ! 大丈夫か……!?」

 上から覗き込んできたのは、夕空の薄い橙の空に溶けるような褐色の肌。心配して眉尻を下げて眉間にしわを寄せているせいか、せっかくの切れ目からは鋭さが失われている。あまり見ない綺麗なスキンヘッドには、うっすらと汗がにじんでいた。

「オイオイ、突然走り出してどうしたよ」
「倒れてる人って、どこっすか?」

 彼の背後には、これまた夕陽の空に合う深紅のショートの男の子と、反するように漆黒で天然パーマのかかった男子。まっすぐにこちらを見ているスキンヘッドの彼とは違い、彼らは周りを見回しては困ったように顔を見合わせている。
 私すらも状況が飲み込めずにいると、スキンヘッドの彼が褐色の大きな手を差し伸べてきた。

「いや、どう見てもここにいるだろ……」
「…………」
「なぁ、アンタどうしたんだ? どこか体調でも……」

 当たり前のようにこちらに手を差し伸べる光景が、この記憶で初めてのことで――衝撃が大きすぎた。結局、私がのどから絞り出せた言葉は、たった一言だけだった。

「……見えてるんですか?」
「……は?」

 私の手を掴まんとばかりに伸びてきていた手が、止まる。
 そしてその手を、後ろからのぞき込んだ二人の男性が首をかしげながら見えている。

「オマエ、いつからそういうキャラ始めたワケ?」
「ジャッカル先輩、さすがにそのネタは寒いっすよ~」
「いや、ネタじゃねぇし……え? お前らこそ、ネタだろ?」

 私と、スキンヘッドと、赤髪と、パーマの彼。全員が黙り込み、あたりには車道を通る車の排気音だけが木霊していた。

「……ジャッカル?」
「いや、どう見てもいるだろ? ここに、女の子が」

 ジャッカルと呼ばれたスキンヘッドの彼が私を指さし、二人の男子はその目を露骨に擦ってから再度こちらを見た。

「――うお!? ホントにいた!」
「え? さっきまでマジでいなかったっすよね? どういう手品?」
(この二人にも、見えた……!?)

 突然のことに頭がついていかず、私は何も言えずにただただ口を開けてスキンヘッドの彼を見返すばかりだ。

「どうした。ほら、立てるか? 立たせてやるよ」

 当たり前のように差し伸べられた手を、つかめるような気がしたのだ。
 見えないフリをされたのはドッキリで、私は実はまだ生きているんだと。そう希望的観測の予想を立てて、差し出された手を掴み返そうとして――すり抜けた。

「…………」

 私以外の3人が、ほぼ同時に息をのんだ。一瞬触れるかと錯覚したのは、やっぱり都合のいい幻想だったらしい。彼が何度か試すも、いくら掴もうとしても彼の手をすり抜けてしまうのだ。

「お、おう。アンタ手品が上手いな。天才的だぜぃ?」
「そ、そっすよね~! やっぱ、手品っすよね!? オネーサンやるぅ!」
「いや、俺は確かにつかんで――」

 褐色の手が、私の手を、腕を、肩をすり抜ける。それはもうどの角度から掴もうとされても、見事に。私の手を突き抜けていく。
 彼らはすり抜けたスキンヘッドの彼の手と、私を何度も何度も見比べて、最後には私に視線を送ってきた。わかりきった結果に、私は諦めのため息をつくしかない。

「やっと触れると思ったんだけどなぁ」

 その言葉を聞いた彼らには、私が現世の人間を引きずり込もうとしている悪い幽霊に見えたのだろう。一瞬でさっと顔は青ざめ、のどを引きつらせ、そして――私よりも甲高い声で叫んだ。

「ぎゃ―――! 本物の幽霊!?」
「マ、マジっすか!? オレたちのこと、呪い殺すとか!?」
「今……通り抜けた時、ちょっと空気冷たかったぞ!」

 彼らのあまりの慌てようが面白く感じる。お化け屋敷で人を脅かす役の気持ちが少しだけわかったし、なんなら人に認知してもらった幽霊がちょっかいをかける気持ちもわかった。つまり、こういう気持ちなのだ。
 面白くなって、飽きるほど見た夕焼けとは真反対の真っ青な顔をした彼らに向かって、私は両手を大きく振りかぶった。

「のわあああ! 逃げるぞ――!!」
「ジャッカル先輩、なにボーっとしてるんすか!? 呪われないうちに速く!」
「お、おう!」

 あまりにお粗末な襲うぞポーズも、本物の幽霊がするとそれらしく見えるらしい。私のひと挙動で、大の男たちがだばだばと逃げていく。
 スカッとしもするし、見ていて面白くもあるが……やはり、恐怖の瞳で逃げられるのにいい気分はしない。

(まぁ、幽霊相手にしたらそうなるよね)

 とはいえ、私に呪う力があるわけでもない。私はどうすることもできずに、ただただ逃げていく彼らの背中を見送ることしかできなかったのだった。