02 懐かしい姿
夕陽が眩しくて手のひらをかざしても、半透明になっているそれが日差しを遮ることはない。
透けた手のひらから見える夕陽は、ところ狭しと並ぶ住宅のビルの向こうへと沈んでいこうとしているところだった。
(来ないかなぁ……見える人)
男子学生たちから逃げられて数日。残念ながら私の生活は何一つ変わっていない。
私のことが見えた学生たちはこの場所を避けているのか、それ以来見かけていないし、彼ら以外に私のことが見える人に出会うこともなかった。要するに、退屈な日々が戻ってきただけで。
(まぁ、幽霊なんて見かけたらむしろ近寄らないよね)
自分から呪われに行く人間がどこにいる。
もう一度会ってみたい、話してみたいという気持ちはあるものの、もう会える気がしない。なにせ、私が彼らの立場だったらこと10年くらいはこの場所を避けて生きるからだ。
ただ、私は彼らに感謝したかった。
ぼんやりと立っていうだけの幽霊人生に、ちょっとした希望の光を差し入れてくれたのだから。
(結局すり抜けちゃったけど……一瞬だけ、触れた気がした)
先日、スキンヘッドの彼が差し出した手。すこしごつごつしていて男の子らしい、私より一回りも二回りも大きな手に。本当に皮膚が触れそうなほんの一瞬だけ――触れたような気がしたのだ。その直後にすり抜けたから、気のせいかもしれないが。
その一瞬だけ感じた温かい感触を忘れたくなくて、私はそれ以降いろいろなことにチャレンジしてみた。
例えば、こちらを認識してもらえらば触れられるのかもと思って声をかけまくったり、人より感性の鋭い動物にも同じことを試してみたり。むしろ、幽霊だから浮けるのではと飛ぼうとしてみたり、念力を使おうとしてみたり、特殊能力が使えるのではといろいろなポーズをとってみたり。人に見えないとわかっているからこその思い切りだ。
だいぶ勇気がいるけど、道路の車の前に飛び出してみたりもした。残念ながら、飛び出しも含めて全て不発に終わったけれど。
それでも、可能性を求めて過ごす日々は、ただぼんやりしている時間より充実していたことは間違いない。
「ふぅー……」
そうして今日も、実験のために、私は川と歩道を隔てる欄干の上に立っていた。
今日の課題は「幽霊は濡れるのか」「落下ダメージはあるのか」という二点だ。
歩道の傍らにある川。そこに飛び込んで、どうなるのかを試す。高さがあるためこれまた勇気が必要で、なかなか飛び降りることができずに手すりの上で深呼吸ばかりしている。
(いや、車にもひかれなかったし。いける、いける)
けど、水にたたきつけられて痛かったらどうする。水に浮かなかったらどうする。いろいろな仮説に怯えながらも、変わりない日々を打ち破るため――私は一歩を踏み出した。
「あっ!」
「お、おい!!」
「マジで行った!」
「――え?」
落ち始める瞬間に声がして、目だけを声をするよう方に向ける。
そこには先日の男子学生たちが、驚愕の表情を浮かべてこちらを見ていたが――幽霊にも重力はあったのか、私は川へと真っ逆さまに落ちて行った。
* * *
幽霊とは何なんだろう。
結果的に言えば、川には落下したものの水には浮いた。そういうものだという意識が私にあるせいだろうか。着ていた服の端は水に浮いて揺らめいていたものの、泳いで岸に上がれば服は濡れていなかった。
なかなかの都合のよさに驚きはしたものの、私をもっと驚かせたものが岸に待っていた。
――先日、私を見て逃げ出した男子学生たち3人だ。
「いや、アンタ……マジ何してんの」
「何って……実験?」
「……実験だぁ?」
「幽霊って、落ちても痛いのかなって。あと、水にぬれるのか気になって……」
車の通りのある私の所定位置から、少し下流に流れた川の岸辺。整備されていない砂利、誰も手入れのしていない高い背の雑草たち。そこに隠れるように、私たちは座り込んで顔を突き合わせていた。
「あなたたち、逃げなくていいの?」
「いや、自分たちから声をかけといて逃げるも何もないだろ……」
「幽霊って飛べるんじゃねーの?」
「さぁ? できたら泳がないんじゃないっすか?」
私の前で学生たちが普通に喋っているなんて、妙な光景だ。
先日、顔を青ざめて逃げた彼らも、今や平然とした顔で私を囲んでいる。
「ええ? なにこの状態……」
「いや、俺らも最初は超ビビったんだぜ? 透けるし、幽霊だし」
黒髪パーマの男の子が、ほらほらと言いながら私の肩部分に手を何度も通り抜けさせる。それを見ながら、フーセンガムを膨らませている赤髪の彼が眉間にしわを寄せた。
「呪われるんじゃないかと思って、お祓いとか言ってたらスゲー笑われたけどな。特に仁王」
「まぁ……他人からすりゃ、そんなもんだろう」
「気持ちはわかるよ、最初は信じられないもんね」
「いや、アンタが言うなよ……」
そうは言われても信じられないのは私も一緒だ。「だからいろいろと実験してた」のだと説明すると、彼らは苦虫をかみつぶしたような顔になっていた。
「それで、だな。まぁ、信じられないのもそうなんだが、興味もあって……お前のこと、遠くから見てたんだよ」
「……え?」
「オレの天才的発想で、最初は望遠鏡とかでな。直で近寄るとかコエーし」
「そしたら、通行人に大声出したり、妙なポーズしたり、車に飛び込んだり……妙なことばっかりしてたから、なんつうか怖くなくなったというか」
「み、見てたんですか……?」
おそるおそる聞けば、彼らはそろって頷いた。パーマの彼なんか「超面白かったっすよね!」と傷をえぐりにくるものだから、今こそ呪いの力が欲しいと思ったことはない。
「あ、あなたたち……」
「赤也お前……! なに煽ってんだよ、呪われんぞ!?」
「えっ! いやだって本当のことだし……ブン太先輩もめっちゃ笑ってたじゃないっすか!」
「あっ、バカお前……!」
パーマの彼と赤髪の彼が、互いに指をさしながら責任を擦り付け合う。
必死にこいつがこいつがと聞いてもいないプライベートな私怨を暴露し合ってるさまは、どこにでもいる普通の男子学生だ。学校の教室で見る、どこにでもある光景で――不覚にも、懐かしさというものを覚える。
「お前……泣いてるのか?」
スキンヘッドの彼が、川で飛び込んだ時と同じ驚愕の表情でこちらを見ている。
言われた私も驚いて、慌てて目をぬぐうと――温度は感じないけれど、確かに水らしい感触が人差し指の背に残っている。
「かも。なんか、懐かしいって思ったから……」
「懐かしい……?」
「私もよくわかんない。幽霊になる前、学校に通ってたのかもね」
「お前、もしかして記憶がないのか?」
まぁ、と軽い返事を返せば、あたりが一気に静まり返ってしまう。そんなつもりはなかったのに、幽霊に同情するなんて心やしい学生たちだ。
とはいえ、私もかける言葉見つからず、辺りには帰宅する車の排気音と、傍を走る川の水音だけが響いている。
「だったら、お前の面倒を見てやるぜぃ」
静寂に切り込むようにそう言ったのは、フーセンガムを膨らませている赤髪の男の子だった。
パーマの彼も、スキンヘッドの彼も、赤髪の彼を見て驚愕に目を見開いている。
まさか、幽霊の面倒を見るなんて聞いたことがない。いったいどういうつもりなのか――と問いただす前に、赤髪の彼はフーセンガムをパチンと弾けさせると、右手でスキンヘッドの彼を指さした。
「――ジャッカルが」
「おい、俺かよ!!!」
は?と呆れた声が出る前に、スキンヘッドの彼が素早くツッコんだ。
なるほど、彼らはお笑い芸人の卵なのかもしれない。