03 お人好しと迷子



「……つーわけで、ここだ」

 案内された先は、日本建築にはよくある二階立ての一軒家。
 住宅地の中に埋もれた、どこにでもあるその家。一階のある窓の一つに明かりが灯っていて、日の沈んだ時間から考えたら夕食を作っている母親がいるんだろうと想像がついた。
 男子高校生が学校と部活を終え、我が家の前に立つ光景。はたからしたら突出して変なところは見当たらない。

 ――ただ一つ、その後ろに幽霊を連れていなければ。

「お前って、あの橋以外の場所にも行けんのな」
「私も初めて知った」

 立海大付属中学校3年。ジャッカル桑原。それが彼の名前なのだと、道中に教わった。
 河原で「お前の世話をするぜ。――ジャッカルが」と言った赤彼は同じ学校の丸井ブン太と言い、黒髪パーマは切原赤也。彼らは中学校テニス部に所属している仲間らしく、練習後の寄り道中に私の目覚めた橋を通りがかったらしい。
 彼曰く『貧乏くじはオレの役目』とのことで、彼は丸井くんに言われるまま私を自分の家まで案内してくれた。

(いや、お人好しが過ぎるのでは)

 幽霊の私がこんなことを心配するのはお門違いかもしれないが、友人に言われたからって幽霊を自宅に招き入れる奴がどこにいる。そりゃ招かれた幽霊本人だって心配になるもんだ。

「えーっと……幽霊の世話ってなにすりゃいいんだ?」
「ご飯も食べないし、寝もしないよ」
「……世話いらねぇじゃん」
「そんな今更な」

 しっかりしているようで抜けているのか、ジャッカルは困ったように頭を軽くかいた。

「とはいえ、今更あの橋に帰れとか言わねぇよ。話し相手くらいにはなるから、入れよ」

 ジャッカルくんはそう言って、玄関に鍵を挿し込んだ。

「いや、特に気にしなくていいよ。私もノリでついてきちゃったけど、別に不自由はしてないし」
「話し相手には不自由してんだろ」
「それは、まぁ……」
「なら入れって。大したもんないけどな。ただいまー」

 玄関を開けたジャッカルくんの後ろについて、中に入る。小綺麗なフローリングの廊下の隅には、これから捨てるであろう段ボールや新聞紙の束が積まれていて、生活感を感じさせる。廊下の奥、明かりが漏れる部屋からは「おかえり」と母親らしい女性の声が響いた。

「上にオレの部屋があるから、先行ってろよ」
「……あ、はい」

 よくわからずかしこまった言い方で頷くと、ジャッカルくんは明かりの方へと歩いていく。お母さんに顔を見せに行ったのかもしれない。律義でいい人だ。
 言われるまま階段をのぼれば部屋がいくつか分かれていて、ノブにテニスのチャームがかかっている場所が彼の部屋なのだと直感で感じた私は、目を閉じて壁をすり抜け、その部屋に足を踏み入れた。

 シンプルなアルミフレームのベッドに、教科書が散乱したデスク。壁に掛けられたヒップホップな音楽ポスター、ラケットやシューズが壁に立てかけられている様は、彼がテニス部の男子中学生なのだと感じさせる。生活感のある部屋は彼が生きて生活している証なのだ。

(……いいなぁ)

 この部屋にあるものは、全て彼が選んで彼が買った、彼の一部だ。ジャッカルくんという人となりを知ることのできるこの空間は、本当にきらめいて見えた。
 ちくりと、あるはずのない胸が痛んだ。この主張の強い空間にいることで、何もない私はかき消されてしまいそうな気がして――私は開いていた窓に座って、部屋を背に外の景色を眺めることにした。

 住宅街の屋根できた地平線の向こうに、夕日が沈んでいく。
 ここ数日見ていたものとは違う景色は、私の代わり映えない景色から変化が訪れた証拠ではあったが、不思議なことに満足感は持っていなかった。

(これから、どうすればいいんだろう)

 流されるままに進み続け、最後にはどこにたどり着くのか見当もつかない。
 この気持ちを抱えたまま彷徨い続けるのか、それともいつしかそんなことも考えられないように消えてしまうのか。虚しさと悲しさがないまぜになって、考えるのをやめたくて、私はそっとまぶたを閉じた。

「……何してんだ?」

 ふと背にかけられた声に振り返った。窓から入った風が、レースでできた薄手のカーテンをあおる。
 風で舞い上がったカーテンの隙間から、ジャッカルくんの驚いたような顔が見えた。

「何もしてないよ、ただぼーっとしてただけ」

 しばらく黙っていたジャッカルくんは、我に返ったのか扉を閉めて部屋に入ると、レースのカーテンを開けて私の後ろに立った。何を言うでもなく、口を引き結んだ表情で私を見つめている。

「ここ、神奈川県だっけ? 全然景色に覚えがないや」
「そうか」
「あそこが事故現場なら、近くに住んでると思ったんだけど。そう簡単にはいかないね」

 再び沈みかけている地平線を見る。もうすぐ夜が来る。静まり返って、つまらない、長い夜が。
 ずっとそうしてつまらない夜をやり過ごしていたというのに、ジャッカルくんや丸井くんたちと話せるようになって、欲張りになってしまったようで。なんだかひどく寂しく感じてしまっていた。

「……お前さ」
「うん?」
「人を呪ったりできんの?」

 ジャッカルくんの唐突な質問に、私は目を瞬かせた。

「いや、たぶんできないと思う。えーっと丸井さん?たちが私を見て笑ってた、って話を聞いたときに呪ってやろうかと思ったけど、できなかったし」
「あんとき、呪ってやろうかと思ってたのかよ」
「ちょっとだけね? ちょっとだけ」

 苦笑する私に、ジャッカルくんは少し考えこむように黙ってしまった。
 何を考えているのかわかるはずはなく、私はただ、彼の言葉を待っていた。

「お前さ、呪わないってんなら……しばらくいていいぜ」
「……え?」

 唐突な言葉に、私は一瞬彼が何を言っているのか理解できなかった。

「お前、記憶がないんだろ。ブン太に言われたからじゃねぇけど……そんなもんでいいなら、面倒みてやるし」

 困ったように笑う姿が、地平線に沈む夕日に照らされて眩しく映る。

「……お人好し、って言われない?」
「都合がいい、とかは言われてるらしいぜ」
「はは、酷い言われよう」

 乾いた笑いだったけれど、口角が小さく持ち上がったことがわかった。
 こんなに眩しい人間を見たのは、きっと、生前も含めて初めてに違いない。記憶がないから、直感でしかないけれど。