騎空挺の甲板に、一人の男の影が落ちた。
月明かりと照らされて、男の影はぼんやりと揺らめいている。
影は船頭までやってくると、柵に背中を預ける形で空を仰いだ。
「あー……ったく、やってらんねェ……」
男――エルモートがついたため息は深い。
それは今日の受難を思えば当然であった。
朝は実験台を求める魔女に追い回され、昼は訓練だと血気盛んな男たちに付き合わされ、夕は子供たちに遊び相手としてさんざじゃれつかれ、夜は酒豪たちに呼び止められて宴会に巻き込まれたのだ。
彼が解放されたのは、酒豪たちが一気飲み対決を始め、全員が酔いつぶれた真夜中。月が高く上り、星が煌めく深い夜になった今さっきのことだった。
「どうなってンだよ、ここの連中は……」
エルモートの口の悪さや人相に怖じ気づかず、ここの団員たちは遠慮なく彼に声をかけてくる。年端のいかない少年少女たちですら、だ。
心の奥底では喜びを感じながらも、ずっと一人で生きてきたエルモートにとってそれは妙な心地であった。
とはいえ、彼らが絡んでくるときは大概トラブルを運んでくるのだから厄介でもある。
「……あ?」
仰いだ空、月にかかる見張り台で小さな影がゆらりと動いた。
見張りとして辺りを見回すわけでもない、そもそも見張りとしては背丈が小さすぎる。
「……ガキどもは全員寝てやがったと思ったんだがな」
子供かと思うと彼の脳内が「放っておけない」と声を上げた。
明かりもつけずにあんな高いところにいては、帰りに足を滑らせるかもしれない。
「……チッ」
エルモートは吐き捨てるように舌打ちをすると、見張り台へのはしごに足をかけた。
暗いと思っていた見張り台は、月に近いせいか思った以上に明るい。だから、彼が見張り台へと辿り着いたとき、ぼんやりと照らされた横顔が誰かなんてことは簡単にわかってしまった。
「団長だろうが何だろうが、ガキは寝る時間だぜ。」
「……エルモート」
見張り台で膝を抱えていた彼女は、エルモートの顔を見て驚きに目を瞬かせる。
「今、何時だと思ってンだオマエ」
「ごめん、眠れなくて」
彼が厳しいも優しくことを知っているは、困ったように微笑みを浮かべた。
そのまま、エルモートに向けていた視線は夜空の月に向けられる。
動く気配のない彼女を放っておくわけにもいかず、エルモートは小さく頭をかいてから隣に腰を下ろした。
「悪ィ夢でも見たのかよ?」
「……まぁ、そんなところ」
月を見たままの彼女は、小さく頷いた。
「部屋、真っ暗で……怖くて……」
「……ハァ?」
ルリアは今日、カタリナと寝ていて部屋に誰もいなかった。灯していたランタンの灯りも消えてしまって、怖くなって慌てて飛び出してきたのだ、と彼女は続けた。月明かりを頼りに、もっとも月に近いこの場所にいたのだと。
予想外な言葉に、エルモートは眉根を寄せる。部屋が暗くて怖い、だから眠れない……なんて、子供すぎる言い訳だ。いや、そもそも子供でもそんなことを言う奴はこの船にいないかもしれない。そう思うと、自分たちを率いている団長がひどく情けなく見えた。
「オイオイ、しっかりしろよ団長サン」
ハッ、と彼は小さく鼻を鳴らす。自分たちを率いて戦うのだから、しゃんとして欲しい。そういう嫌味のつもりだったのだが、彼女の手が小さく震えているのを見て口を閉ざした。
「……うん、そうだよね。ごめん」
ザンクティンゼルでちょっと、と彼女は続けた。
その言葉に、彼はビィから聞いた旅の始まりを思い出す。
曰く、彼女は出会ったばかりのルリアを助けるためにヒドラに立ち向かい、その胸を貫かれて死にかけたのだと。いや、むしろあれは一度死んだも同然だったと、付け足したカタリナの苦々しい表情も一緒に浮かび上がる。
「戦っている時はいいんだ。みんなと一緒にいればどうってことない」
彼女は震える手に視線を落とし、その拳に力を込めた。
「でも、夜は……真っ暗の中に一人は」
苦手、と困ったように彼女は笑う。
エルモートはその顔に、心臓が握られたような苦しさに見舞われた。心の中で盛大に舌打ちをする。俺は何を言ってンだ、バカが。自分の迂闊さに反吐が出そうだった。
(コイツだって、女だろうが……)
死んだときの恐怖なんて、わからない。それを抱えている彼女の苦しみを軽んじてしまった。理解されない悲しさを良く知っているのは、自分なのに。
エルモートは、腰につけていた空のランタンに指を向ける。
「エルモート?」
「いいから、黙って見とけ」
神経を研ぎ澄まして、目を細めた。彼の力が瞬間的に上昇して、ランタンの中に火が灯った。
月明かりだけだった見張り台が、ぼんやりと彼の灯りに照らされる。
「……やる」
目を瞬かせる彼女に、エルモートはそのランタンを押し付けた。受け取ったは、ランタンと彼の顔を交互に見る。
「えっ?」
「やるっつってんだよ!」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、エルモートは顔を背けた。
「俺の炎で灯してやったンだ。簡単に消えやしねェ」
「……うん」
「オマエの寝相が最悪で、もしそいつを倒しても、炎はびくともしねェだろうしな」
「……うん」
「そいつを灯してりゃ、部屋が暗くなることなんてあり得ねェ」
表情はわからなくても、は彼の言いたいことがわかっていた。妙に流暢な言い訳や、微かに上ずった声が、彼女に笑顔を取り戻させる。かというエルモートも、彼女の相槌に笑いが混じっているのに気付いて、誤魔化すように続きをまくしたてた。
「だから、なんだァ。アレだ。……つまり、ガキはそれ持って帰ってさっさと寝ろ!」
最後にはほとんど怒鳴り散らして、彼女を睨みつける。
背けていた視線がと交じり合い、エルモートは妙な気恥ずかしさに動きを止めた。
「……ありがとう、エルモート」
渡したランタンを愛しそうに握りしめ、彼女は柔らかく微笑む。
ぐっと呻いたエルモートの顔は、自分の炎に照らされてやけに赤く染まっていた。
「……っ、うるっせーよ! さっさと寝ろつってンだろ!」
「はい!」
裏返った声を聞いて、彼女はおかしそうに手を上げた。その手はもう少しも震えてはいない。
月明かりと彼の炎、二つの灯りに照らされて……見張り台に二重の影がぼんやりと揺らめいていた。