03 下水道の鳥の名
のんきにソファーで寝こけていた彼の、赤い鉢巻を思い切り引っ張った。しかし、この鉢巻を引っ張っても大したダメージにはなっていない。苛立った私は渾身の力を込めて、頬をつついた。
「いでっ!いてぇっ!」
さすがの亀も、むき出しの皮膚をくちばしでつつかれるのは応えるらしい。勢いよく飛び起きたラファの肩が傾いたものだから、私は重力に従って彼の膝へと落下した。
「てめっ、鳥…… 何しやがる」
(何しやがるじゃないですよ。それはこっちのセリフです)
膝から見上げるようにラファを見ると、睡眠の邪魔をされたことが気に障ったのか、こちらを睨む目の筋肉がぴくぴく痙攣していた。いや、起こしたのは悪いと思うが、こちらも死活問題なのだ。怒りを表してジジッと鳴くが、怪訝そうにしている彼は理解してくれない。
怒り心頭、私は彼の膝の皮膚をこれでもかというほど連続でつつきまくった。
「あだだっ!やめろっ!地味にいてぇ!!」
(気付けっ!気づけよっ!)
私とラファが攻防を繰り返していると、向かいのソファーで本を読んでいたレオが顔を上げた。
「ラファ、鳥にエサやったか?」
「あ?エサ?……あー…… あだっ!」
(そうだよ、エサだよ!早くくれよ腹減ったよ!!)
彼が全面的に世話をするという話だというのに、ラファは半日も経てばそのことを忘れてしまう。私が最後にご飯をもらったのは、昨日の晩だ。エサのケースが空っぽになってから、すでに1日が経過しようとしている。このままだと、餓死してしまう!
「こんな小さい体なんだから、ちゃんとご飯あげないとだめじゃーん」
ソファーの背もたれから、マイキーが顔を出す。背もたれに頬杖をつきながら、痛がるラファをにやにやと眺めていた
(本当だよ!わかっていたのは撫で方だけか!危うく騙されかけたよ!)
「鳥ちゃん、むちゃくちゃ怒ってんね。ラファのせいだけど」
「そういえば、鳥で思い出したけど……」
ラファの膝をつつきまくる私を横目で見ながら、通りがかったドナが目を細めた。
「鳥?鳥ちゃんがどうかした?」
「いや、この子じゃなくて。外にある機材に鳥がフンを落としてて、このままだと機材に影響が…」
「鳥ちゃんに鳥を追い払ってもらうとか?」
「飛べないだろ、この鳥は。鳥なんだから、コンパクトディスクでもつけておけば…」
「えー、でもCDって鳥全体に効果があるんだから、いつか外に出た鳥ちゃんにも影響が……」
「だー!鳥鳥うるせぇよ!どの鳥の話だ!」
ラファの言葉に、レオも、マイキーも、そしてドナも顔を見合わせる。
怒鳴り散らした本人は、静まり返ったその空気に訝しげな表情を浮かべた。
「そういえば、この子の名前決まってなかったな」
「何かつけてよ、ラファ」
「なんで俺様がわざわざ……」
「全部の責任持つんだろ!」
勝ち誇ったように指をつきつけたマイキーの指を、ラファは思い切り力を込めて握りしめた。いだいいだいと、さっきとは別の悲鳴が住処に木霊する。
(名前かぁ……)
野生の時は、名を呼ぶ人なんていなかったからそんなこと考えたこともなかった。今、この住処の亀たちに「鳥」と呼ばれることにも慣れてしまったし、今更名前なんてすこし気恥ずかしい気もする。
「いいんじゃないか。名前を付ければ、ラファも少しは愛着沸くんじゃない?」
「愛着が沸きすぎても困るがな」
「世話するようになればいいんじゃない、ってことだよ」
私のそばまでやってきたドナが、最新の注意を払って私を掴むと……躊躇なくひっくり返して、額についていたレンズでこちらを覗き込んだ。
(ちょ、ちょっと……!)
「この子、メスだね。女の子の名前つけてあげれば?」
(乙女になんてことするんだよ!!)
「いたっ!ごめんってば」
くちばしで異議を申し立てれば、すぐに私はラファの膝に戻される。膝の皮膚をつつかれることを警戒しているのか、彼はドナに「なんでここに戻すんだよ」と視線で文句を言っていた。残念ながら、視線を向けられた当人は携帯端末を見ていたので気付かなかったが。
「ほら、ラーファ!早く決めてよ!何でもいいから!」
「何でもいいっつってもなぁ……」
マイキーはにやにやと彼の口が開かれるのを待っていた。どう考えても、ラファの口から女の子の名前が出てくるのが面白いのだろう。それとも、破滅的なネーミングセンスを期待しているのか、果たして。
「……」
「へっ?」
(ん?)
「、でいいだろ」
マイキーが目を丸くする。私は目を瞬かせる。レオはラファを見たまま固まっているし、ドナに至ってはメガネがずるりと鼻から落ちる。本日二度目の沈黙に、ラファは居心地悪そうに頭をかいた。
「意外だな、ラファが割とまともな名前を付けた」
「っていうかそれ、さっきまで読んでたマンガに出てた名前じゃん!」
「なんだっていいんだろ、女の名前なら」
「いいけど、しかもヒロインの名前とかじゃないし。脇役じゃん!」
「思いついたのがそれだっただけだ!文句があるなら自分で決めろ!」
ラファはふん、と鼻を鳴らすとそのままどっかりとソファーに横になって目を閉じた。マイキーが唇を尖らせるものの、レオとドナは特に異論はないようだった。
「いいんじゃないか、」
「うん、僕もいいと思うよ。まぁなんだっていいし」
「ええーっ!仕方ないなぁ……」
(…… それが、私の名前……)
じんわりと、胸にしみ込む何かを感じた。それは鳥である私が感じるはずもない、微細な感情の変化。二足歩行の亀に感化されて、私も鳥らしくない本能以外の何かを感じるようになったようだった。
「、良かったね。君の名前だって」
マイキーの言葉に、チチ、と喉を鳴らす。うれしいよ、すごくうれしい。温かな感情が全身を満たす。
――しかし、それは次の瞬間に、気持ち悪いほど刺激された胃によって、空腹という本能に上書きされた。
(そうだ、ラファ!エサよこせ!エサ!!)
「あだっ!やめっ、やめろクソ鳥!!なんなんだよ!」
「……エサ、あげれば?」
ドナの一言にラファが立ち上がるまで、私はラファの太ももを執拗につつき続けた。