10 暗闇に浮かぶ赤


「……?」

 サックスタワーの倒壊から助かり、地面に降り立ったラファは振り返った。たくさんの人々が、地面に墜落したシュレッダーを囲んでいる場面に一瞬だけ目をやる。しかし、すぐさま後ろにいたレオに小突かれて、マンホールの中に身を滑らせた。彼にとって少し狭い、一般的なマンホールを降り、下水道の開けた道にたどり着く。この先を伝えば、我が家に繋がっているのだ。

「ラファ、どうした。早くスプリンター先生のもとに行くぞ」
「……ああ」

 煮え切らないラファの答えに、マイキーが両手を頭の上で組みながら首を傾げた。

「どうしたの、ラファ。なんかあった?」
「……別に、なんも」
「なんもって割には覇気ないね。せっかくシュレッダーを倒したっていうのに。……本当に何もないの?」

 レオやマイキーに加え、ドナにも追及されたラファは一度口を閉じ……そして、呟いた。

を見た気がすんだよ」
「鳥ちゃん?どこで」
「……わからねえ。俺だってあん時は必死だったからな」
はラファが逃がしたんだろう?」
「……ああ」

 確かに、外へとつながっている排気口へ放り込んだ。小さな鳥は、抵抗するように格子の前で翼をはためかせていたのを、ラファは未だによく覚えている。世話をすれば情がわくとはよく言ったものだ。
 ただ、一瞬。瓦礫と土ぼこりが舞う中……自分のトレードマークである赤を見た気がした。それがどこで、どの瞬間、いつだったかはラファ自身はっきりしない。ただ、格子の前で抵抗したあの姿が、あっさりと空へと自由に飛び立っていくイメージが、どうしてもできなかった。

(なにをメルヘンなことを考えてんだかな)

 自分のことを鼻で笑い、なんでもねえよと兄弟たちを追い払うしぐさをすると、さして気に留めていなかった兄弟たちはまばらに家へと向かっていく。唯一、マイキーだけが駆け出さず、にやにやと笑みを浮かべていた。

「愛着わいちゃった?」
「うるせえ」

 からかうような笑みの末弟の頭を、力を込めて小突く。拳の痛さに半泣きになったマイキーを引きずるように、ラファは自分たちの家へと急いだ。頭の残る小さな影は、自分の見知らぬ場所へと旅立っていったのだと信じて。


   *  *  *


 体が、熱い。半分しか機能していない視界が、横向きになっている地面を映し出す。微かに残っている半身の感覚が、私が水たまりの地面の上に倒れていることを教えてくれた。体の感覚機能が狂っているせいだろうか。水たまりに落ちているというのに、その水に浸かっている半身はやけに熱さを持っているように思えた。そういえば、視界に移っている水たまりは、エメラルド色に発光しているが、これはもしかしていよいよ目までやられてしまったのだろうか。

(これはもう、死ぬな)

 さっきまで隣に倒れていた、私を道連れにしてくれた鎧男は警察と思わしき組織に回収され、すでにその姿はない。彼が大事そうに抱えていたビンは割れ、辺りに撒き散らかされている。人々の注目の的になっていた鎧姿がなくなり、辺りにはもう、ほとんど人の姿がなくなっていた。
 コンクリートのクレーターに残されているのは、瓶の破片と、エメラルド色に発光している液体、白光に煌めく刀。そして、無残な小鳥の死骸が一つ。人々の興味をひくものはなく、雑踏がすこしだけ遠く感じる。半分だけの視界には、もう変化のない地面しか映っていない。

「……とりさん」
(……子供の声)
「おかあさん、とりさん。……かわいそう」
「あら本当ね。埋めてあげようか?」
「うん」

 ふいにハンカチと思われるものに包まれ、私の体は暗闇の中運ばれる。この感覚を味わうのは、二回目だ。赤い亀に轢かれたあの時と、今日。すこし荒っぽい子供の手の中より、ごつごつしているくせにやんわりと運んでくれたあの手の方が優しかった。あの頃が懐かしくて、すこしだけ泣きそうになる。

(……ラファ)

 いつの間にかたどり着いたのは郊外の丘。私の体は、子供の手によってそっと土穴に横たえられた。少しずつ、少しずつ視界が土に埋もれていく。もう、空の色は見えない。土に圧迫されて、息もできない。まぶたを閉じた暗闇の中に、ぽつりと浮かぶ赤。見慣れたバンダナがたなびいていた。

(ラファ)
「……本当は、わかってんだよ。このままじゃやべぇって」
(えっ……?)
「俺様も変わらないと……そうしなけきゃ、いつかあいつ等に置いて行かれる」

 いつの間にか、見慣れた長テーブルの前に立っていた。長テーブルにはいつの日かのラファが、鼻をすすりながらテーブルに突っ伏している。あの日、私に初めて弱音を吐いたラファが、そこにいた。

「あいつらはみんなすげぇよ。…それなのに、俺様はずっと立ち止まったままで…肩を並べて、兄弟だっていつまで言える…?」

 あの日と同じ弱音を、ラファが零した。見るに堪えなくなって、私はあの日と同じセリフを思い浮かべた。

「あいつらが、ラファをおいていくわけないじゃん」
「……そんなこと、わかんねえよ」

 はたと気づく。私は今どこから声を出したのだろう。そもそも、今声を発したのは私なのだろうか。そこで初めて、自分の視界がいつもよりずっと高いことに気が付いた。テーブルの上でラファを見上げるのではなく、同じくらいの高さでラファのことを見ている。
 ぐず、とまた鼻をすする音が聞こえて、私の思考は目の前の彼へと引き戻された。

「ああ泣くな、泣くなって」
「……泣いてねえよ」

 そこで今度は、言葉が通じていることに気がついた。ラファは顔を伏せたまま荒っぽく目元を擦ると……こちらを見た。不服そうに眉間にしわを寄せて、こちらを睨みつけている。

「お前こそ、なんで泣いてんだよ」
「……私が泣くわけないじゃん。私、小鳥だよ」

 私の答えに対して、ラファエロが片方の口端を上げて皮肉そうに笑った。

「お前のその姿の、どこが『小』鳥だよ」

 ストン、と閉幕を告げるように上から闇が落ちてきて、また視界が真っ黒に染まった。
 暗闇の中、息苦しい。息ができなくて、死ぬ!そう思って翼を思い切りばたつかせると、思ったよりもあっさりと手の先が空気に触れた。そのままばたつかせると、私の上に乗せられた土がぼろぼろと体の上からこぼれた。
 
「――ぷはっ!」

 視界に広がったのは、星空。静かな郊外の丘に、満点の星空。新鮮な空気を吸い込んで、私は思い切り体を伸ばした。

「んんー……ん?」

 そして、はたと気づいた。
 視界が高い。声が出る。そしてなにより、自分の翼が不自然なことになっている。例えるならそう、まるで人間の腕に羽が生えているような、そんな奇妙な姿。
 それでも、左手首に巻かれているボロくも赤い、見慣れた布の切れ端が……明確に、私を誰だか教えてくれた。