11 赤い風船と大きい小鳥
水面がキラキラと輝いている。私が目を覚ました丘のそば……林の中にある小さな泉を覗き込んだ。太陽がすっかり昇って、水面は鏡のように私の姿を映し出している。
人間のような顔、しかし人間であったら耳があるべき場所からは見慣れた羽が生えそろっている。私は未だに実感がわからず、手でぺたぺたと顔や体のいたるところに触れた。そして、触れるのに使った自分の手を見る。見たことのある、人間の手だ。しかし、その手に続く腕の外側には羽が生えていて……いや、今までの羽に手が生えたといった方が正しいのかもしれない。
(どうしてこんな姿に……)
私は地面にたたきつけられて、死んだはずだ。実際、土の中に埋葬されたところまではしっかりと覚えている。それなのに、どうして目が覚めたらこうなってしまったんだろう。
「……はぁ」
ため息と一緒に、自分のものとは思えない声が出た。未だに声が出ることも信じられないし、自分の声だとも到底思えない。私はごろりと草の上に寝転がった。
(……どうしよう、これから)
まず、現実を受け入れるのに数日かかった。食べ物は、鳥の時に食べていたものでなんとかなったものの、体が大きくなったせいか量が足りない。さらに問題なのは、体は変わったのに落下の傷の大部分が治っていなかったこと。骨は折れていなかったものの、擦り傷や切り傷は残ったままで……水浴びをするときに痛いわ染みるわで大変な目にあっている。見えない場所が化膿していそうで、怖くもあった。
(…………)
ぼんやりと、林の木々に切り取られた空を見る。ふわりと、その切り取られた視界の中に、赤い風船が風にあおられて入ってきた。多分、マンハッタンからだろう。
ゆっくりと小さくなりながら遠ざかる赤を見て、たなびくハチマキが頭の中をよぎった。
『――』
爪楊枝を咥えた口が、優しく半円を描いたのを思い出す。私は左手を空に掲げた。手首には、ぼろぼろの赤い布が巻き付いていて……この布が、あの時間は嘘じゃなかったのだと私に教えてくれる。
(ラファに、会いたい)
おもむろに立ち上がって空を見ると、赤い風船はさらに遠く、その姿はもっと小さくなっていた。
それでも不思議と身体中に力がみなぎってきて……追いかけようと思った。風船はもう無理かもしれないけど、別の赤ならきっと、捕まえられると思ったのだ。
* * *
(ぜんっぜん、わかんない……)
空で見ていた時と、視界が違うだけでこうも道がわからなくなるのだと、私はうんざりとした気持ちで裏路地を歩いていた。マンハッタンの中でも、薄暗くて人があまり通らないような裏路地。ここなら、あまり人目につかず移動ができると思ったからだ。
もちろん、異形の姿のまま歩き回る訳にはいかない。丘から少し離れた場所にある更地……そこにある不法投棄のゴミの山から、軽い遮光カーテンを拝借してきた。気分はさながら、砂漠を横断する旅人のようだ。残念ながら、ちょうどいい靴はなかったので裸足だが、まぁ足は普通の人間に近いから大丈夫だろう。
(にしても、マンハッタンってこんなに広かったっけ……)
歩けど歩けど似たような道。この街のことはよく知っているつもりでいたけれど、冷静に考えれば餌場くらいしか覚えていなかったかもしれない。自分の知ったかぶりを思い返しては反省した。
「お嬢ちゃん」
「……!」
きょろきょろと辺りを見回していると、突然声をかけられて息をのんだ。
「なぁ、何してるんだ?さっきからそんな格好でうろちょろして」
「どうも見ても怪しいけど……家出かな?」
「……い、いえ……」
「家出にしては浮浪者過ぎんだろ。どうした、親に捨てられたか?」
頭に被っていたカーテンを、深く被りなおした。顔を見えると布が外れてしまいそうで怖くて、声をかけた人間の足元だけをちらりと見る。男らしいバスの声とアルトの声、質のよさそうな革靴が2セット。路地裏の浮浪者とは違う、お綺麗な装いの人間だ。
「捨てられて日が浅い……わけでもなさそうだ」
「となると、このあたりの宿からの抜け出しか?」
(……宿?)
「そしたら、連れ戻せば謝礼がもらえるかもね!」
びくんと体が跳ねる。この人は、私をどこかに連れていくつもりなんだろうか。この人間とはいいがたい体を見られたら、どうなるか……
「その反応、当たりか?」
「ち、違いますから……それじゃ」
「おい!」
この場を離れようと踵を返して走り出し――男の一人に、纏っていた布を掴まれた。
「あっ……!」
頭に被っていた布が、ふわりとフードのように背中側へ落ちる。私の異形さを目立たせる耳羽が日の下に晒されて、それと同時に男たちの顔が良く見えた。体格のいい男と、優男。どちらも私の姿を見て目を見開いていた。
「っ……!」
慌てて頭に布を被って、走り出した。被った際に異形の腕も見られてしまったが、構ってはいられない。走り出した後方から、ひゃは、と歓喜に震える声が聞こえて、背筋に寒気が走った。
「おい、捕まえろ!アレ、絶対金になるぜ!!」
「お、おう……!」
背後から足音が付いてくる。私は慣れない足を必死に動かして、可能な限り速く走ったけれど――ぐんと後ろから強い力に引かれて、引かれるままに後ろにひっくり返った。乱暴に引っ張られたせいで、粗雑に纏っていた布が奪い取られて、私は仰向けになったまま体を縮みこませた。
「ひっ……!」
「な、なんだコイツ……」
「鳥人間か?レプリカとかコスプレじゃねぇだろうな?」
「い、痛い!ひっぱらないで……!」
「……マジ?」
むしり取るような力で耳羽を掴まれ、私が涙目に訴えると……男たちは顔を見合わせて下卑た笑みを浮かべる。
「……売っ払ったらいくらになる?」
(う、売る……!?)
「さぁ?でも、とんでもない額になるぞ。しかも、女だ」
「本当に女か?」
「……確かめる?」
男の一人が、仰向けになっている私の上に乗る。本格的に身動きが取れなくなり、私はかたかたと震えながら顔を腕で覆った。無意味な抵抗だと思っていながらも、すこしでもあの下卑た笑みと距離を取りたかった。
(やだ、いやだ……!!)
――不意に、腹の上に乗っていた重みがなくなる。
「ぐっ……!」
「ぎゃあっ!」
ヒキガエルが潰れたような声に、私は恐る恐る腕の影から辺りをうかがう。壁に背を預けてぐったりとしている先ほどまでの男が二人。それから――
「おい、起きろ」
かざしていた腕についている布と同じ、赤。
「……なんだお前。人間……コスプレか?」
(この声……)
顔の前にかざしていた腕を取り払った。寝転がっているせいで低くなった視界から見上げると、それは見覚えのある景色だった。私よりずっとずっと大きくて、目つきが悪くて、それから、ぼろぼろの赤い布。会いたかった姿に胸の奥がぎゅうと締め付けられる感覚がして、目が熱くなってくる。
「……あ?お前、左手のそれ……」
――ずっと会いたかったラファが、そこにいた。