「ミス・ヒルダ。これは君の意図的な行為かね?」
「そ、そんな!違います!」
「ふむ、ミス・。君はどうだ?」
ごくり、とつばを飲み込んだ。ヒルダはいい、言い逃れはきっとできる。私はどうだろうか。数値の設定ミスはともかく、明らかに物理的な妨害をしていることは確かだ。苦し紛れに言い訳をするか、潔く言ってしまうか。
サックスの無感情な目が真っ直ぐにこちらに向けられて、悪寒が走る。
「どうした、ミス・。黙っているということは、肯定ということでいいのか?」
心配そうな、あるいは訝しげな同僚たちの目が私に集まる。場は静まり返り、サックスの私兵警備達も全員が私を見ている。もちろん、ガラスケースの中に繋がれた彼らも。
「……はい」
「潔くてよろしい。往生際のいい者の方が私は好きだな」
「……どうも」
「それで。誰の差し金だ? オニールか?」
(オニール……?エイプリル・オニールのこと?)
テレビの向こう側でしか見たことのない名前に、頭の中で首を傾げて……私は横に振った。
「いいえ。私の独断です。ついでにいうと、ヒルダが設定した後に機器をいじったのも私です」
「……独断?」
エリック・サックスは汚いものを見るかのような目を私に向けて、醜く眉間にしわが寄せられるのを隠そうともしない。なるほど、これは悪役にふさわしい凶悪な顔つきだ。
「こんな、化け物ともいえる亀を?誰の指示もなく慈悲をくれようと?……君は聖母マリアのつもりかね?……ははは、はーっはっは!!」
とち狂ったように笑うサックスに、体中が震える。いっそ敵だと責めてくれれば、この後起こりうることへの心構えが少しくらいはできたのかもしれない。しかし、笑っている彼の心理は底知れなくて……それが何よりも恐ろしい。
「何が目的だ」
「っ……!」
「言いたまえ、何が目的だ」
笑いがぴたりとやみ、冷酷な声音が私の心を突き刺した。
喉が張り付いて、声が出せなくなりそうだ。それでも搾り出すと、奥から掠れた情けない声音がこぼれる。
「は、母が……地下鉄で、彼らに助けられて……」
「……そうか、正義感大いにご苦労」
サックスが右手を一振りしただけで、私は私兵警備に後ろから押さえつけられる。ガラガラと、キャスターが近づいてきた。毒々しい色をしたボンベがチューブを通じてマスクに繋がっているそれは、つい先ほど披露されたばかりの毒だ。
恐怖で体中が震えて、歯がカチカチと鳴る。のどの奥がひきつり、過呼吸の様に呼吸が乱れていた。
「イイヒトほど早く死ぬというが、本当らしいな。……やれ」
冷酷な一言は、ジョークと一緒にあっさりと告げられる。
赤いメッシュの入った黒髪の女性が、なんてことない様子で私の口にマスクを押し付ける。反射的に、生理的に、涙がこぼれた。息を吸わないように精一杯息を止めようとしても、喉をこじあけるようにボンベから強い圧力で、体の中に淀んだ空気が押し流れてくる。
(のど、焼ける―― 気持ち悪い)
ガシャン、ガシャン!と一際強い金具音がした。涙でにじむ視界の向こうで、ガラスケースの影が激しく暴れていた。
(怒ってくれてるの?ねぇ――……)
ぶつん、と意識がシャットアウトする。
ある意味、それは幸せな終わり方だったのかもしれない。
* * *
――気持ち悪い、頭が痛い。体中がびりびり痺れて、呼吸すると肺が熱い。
「きみ、大丈夫?起きて、目を開けて!」
「…………」
「今、口が動いた。呼吸してる……」
「…………っ」
本当だ。口が動いた、息をしてる。気持ち悪いけど、心臓も動いてる。
意識が戻ってきて、記憶も戻ってきて、私はゆっくりとまぶたを開けた。
「あぁ、良かった!本当に生きてる!」
逆光で眩しいけど、はっきりと見える。覗き込んでいるこちらに垂れている紫のハチマキ、分厚くて丸い眼鏡、ゴーグル。そして人じゃない皮膚、ごつごつした手。ガラス越しに視線だけ交わした漆黒の瞳。
(マイ、ヒーロー……)
「瞳孔は……問題なし、呼吸も少し不規則だけど問題なし、意識はどうかな?」
「……ぁ……た」
「ああ、ごめん。しゃべるのは無理しないで。ゆっくりさせてあげたいけど、時間がないんだ」
「ドナ、早くしろ!!」
「わかってるよ!彼女をもうちょっと労わりなよ、命の恩人だぞ!」
「あぁ、あぁ!後でいくらでも労わってやるから今は走れ!」
視界には、白い天井と紫のヒーロー……ドナと呼ばれた彼しか見えない今、辺りの状況はまるでわからない。ただ、聞こえてくる焦りのにじむ声と、騒がしい銃声音だけでその場の慌ただしさは理解できた。
「ごめん、ここにはいられないから君を連れていくよ。揺れるけど、我慢して」
彼は両腕で私を抱え上げたらしく、彼の硬い胸元に頭を預ける形になる。
どうにかしたいが、体の自由が利かない今、私はただ彼に身を任せる事しかできなかった。