ふわりふわりと、意識が暗闇の中を漂っている。上に向かっているのか、下に向かっているのか、それとも止まっているのかよくわからない。自分の手足の感覚もなくて、ただそこにぽつんと意識があるだけだ。
――……。
声が聞こえて、ゆらりと紫色が揺らめいていた。まるでそっちにむかって重力が働いているかのように、そちらに意識が向かっているのがわかる。この声に聞き覚えがある。この声は、私を呼ぶこの声は、私のヒーローの……
「!」
「……ドナ、テロ」
「ああもう、びっくりさせないで。呼吸が止まってたから何事かと思った……」
見慣れない、コンクリートの天井。至る所に配管が張り巡らされていて、少しだけ生臭い空間。ほんのすこしだけ見覚えのある景色に、私は必死に記憶の糸を手繰り寄せた。
ドナテロが私の携帯に地図を送って、そこが彼らの家で、そうしたらそこに彼らの先生がいて、それで、それで……
「ど、毒ガスは!?サックスは!?それに、先生は!?」
「お、落ち着いて。今説明するから。とりあえず……起きられる?」
言われて、私はゆっくりと身を起こした。紫基調の掛布団をめくって起き上がると、今いる場所がベッドの上なのだと気が付く。周りにちらばっているのは、本に、訳のわからない機械、大量のディスプレイとその配線、それから工具。ベッド以外の場所には足の踏み場もないほどに物が散らかっている。ただ、ベッドの周りに置いてある医療器具や、輸血のキャスターだけは、仕事上で見たことがあった。
「ここ……」
「僕の部屋。必要なものはほとんどここにあったから、都合がいいと思って」
「貴方の、部屋……なんだ……」
「そう言われると、なんだか今更照れくさくなるからもう言わないで……」
意識してしまったのか、ドナテロは困ったように目をそらして、わざとらしい咳払いをする。
「っていうか、あの時は全然急いでたから、ろくに自己紹介もしてなかったよね。あれ?でもさっき僕の名前……」
「あ、他の人がそう呼んでたから。ごめんなさい」
「いや、いいよ。緊急事態だったし、間違っていないしね」
彼はメガネのブリッジを押し上げると、そのレンズの向こうにある綺麗な瞳がまっすぐこちらを見た。
「ええと、順序が逆になってごめん。僕はドナテロ。見ての通り、人間じゃない。ミュータントってやつだ。一応……亀、だけど」
「やっぱり、人間じゃないんだ。……私は」
「それは一度聞いたけどね。っていうか、きみは僕が怖くないの?」
まっすぐにこちらを見ていた瞳が揺れている。今更、冷静に明かりの下で向き合うことが怖いのかもしれないが……本当に、今更な質問だ。
「驚くだけなら、サックス邸でもうした。何度も助けてもらって、何回も触ってるし、今更じゃない?」
「そう、か。そうだよね。うん、そっか……」
私の言葉に心底安心したのか、ドナテロの表情が一気に柔らかいものに変わった。嬉しそうにはにかむ顔は何だか少し幼くて、無性に抱きしめたい衝動に駆られたけど、やめておいた。彼との体格差なら、抱きしめるどころか首からぶらさがっただけで終わりそうだ。
「今は、何時?他の人たちはどうなったの?」
「待って。今順序立てて話すから」
「……うん」
「まず、君に助けられた日から、すでに1日は経過してる。君はスプリンター先生が寝ていた台のそばで倒れていて、それから僕の部屋に運んだ。毒による影響がまだ残っていたせいかな、うなされてたから、新しい解毒剤を急いで作ってそれを投与した。で、目を覚ました今は夜の22時ごろ」
「1日……?」
「うん。体が相当なダメージを受けていたんだと思う。多分、君が思っていた以上に」
ベッドのふちに座り込んだドナテロは、その手をこちらに伸ばした。冷たくてごつごつした手が、優しく前髪をかき分けると、そっと額に触れる。
「熱は……ないみたいだね。瞳孔も正常、脈も正常、呼吸も正常。体に痛みやだるさは?」
「……すこしだけ、だるいかも。ちょっと肺も痛い」
「まぁ、肺からダイレクトに化学物質を摂取させられたんだから仕方ないのかな。でもそれぐらいは想定の範囲内だね。もう普通に出歩けると思う。過度の運動は禁物だけど」
「……はい」
「ああでも、念のためにもう1日様子を見た方がいいのかな。そもそも僕はこういった医療系は守備範囲外だし、でも化学物質の成分分析終わらないとの治療はできないし、そもそも分析まだ終わってないし可能性といてはまだ後遺症も……」
じっとそのまま待っていると、ドナテロは頭の中であれこれ知識をかけ巡らせているのかぶつぶつと独り言を始めてしまった。
というか、ひとつだけ気になっているんだけど……
(いつまで、熱を測ってるんだろう)
私の額の熱が徐々にドナテロへ移っているのか、彼の手も、私の額も同じようなぬるさになっている。
感じられるのは、ごつごつした感触だけで……私は訴えるようにじっと彼の手を見ていた。いや、嫌なわけじゃない。ただ、いつまでも私の額に触れてたら、彼の手が疲れないかどうかが心配だっただけだ。
「……っていうか、これは後でいいか。それで、事件だけど……」
「その前に、手……疲れない?」
「え?手……」
まさかの額に手を当てたまま次の話を始めようとしたので、申し訳ないと思いながら遮ると……ドナテロは、自分の手と私の顔を何度か見比べた。そして、一瞬で顔が紅潮する。
「うわぁっ!ごめん、別のこと考えてて全然気がつかなかった……!」
「え、いや。私は別にいいんだけど……」
ばっと手を避けたドナテロは、顎に手を添えてわざとらしい咳ばらいをした。本日二回目だ。
「で、あの事件だけど…… 一応、何とかなった」
「本当に……?」
「うん。シュレッダーも、サックスも倒したし、毒ガスは止まった。もう大丈夫だよ」
「よ、よかった……」
「サックスタワーの周りは大騒ぎだったけどね。1日経って落ち着いてきたから、もう人だかりとかはないと思うけど」
ニューヨークの市民が助かった。つまり私の母の命はもちろん、私の命も助かったことになる。これで彼は――私の母だけでなく――正真正銘、私のヒーローになったわけである。私は、ドナテロに頭を下げた。
「えっ!な、なに?」
「ありがとう、ドナテロ。助けてくれて……」
私がそう言うと、彼は私の肩を掴んで、慌てて顔を上げさせた。
「ぼ、僕だけじゃないよ。兄弟たちみんなでやったことだから」
「そっか。……それじゃあ、帰り際にみんなにもお礼を言わないと」
「あ、それなんだけど……」
ベッドから降りようとすると、慌てた様子で彼はそれを阻止した。私は縁から足を降ろせず、膝を立てたままベッドの上で目を瞬かせるしかできない。
ドナテロは真剣な表情で、ベッドに手をつく。ぎしり、と特有のきしむ音が部屋に響き渡った。
「悪いけど、君をこのまま帰す訳にはいかないんだ」