「……あれ?ドナだけ?」
「そう、僕だけ」
大量のモニターと複数のキーボードを三つの指、二つの手、つまり六つの指で器用にカタカタと打ち鳴らしたドナテロの作業を、後ろから眺める。画面に流れる大量の文字の意味はわからない。彼曰く、あの事件以来コマンドインターフェースというものを嗜んでいるらしいが、私にとっては何が何やら。
慣れた足取りで、路地裏のマンホールからこの家へとやってきた。亀たちの住まいへ来ることに関しては随分慣れてきたし、年下の彼と顔を合わせるのはこれで何回目になるだろう。彼は、私の体の中に残った毒を随分と気にしてくれているようで、数日おきに呼び出されては『定期健診』を受けている。私は大概義理堅い方だと思うが、正直、ここまでくるとドナテロもいい勝負だと思う。
「みんなは外に出向いてる。まったく、夜だからって気を抜き過ぎだと思うんだよね、いくら深夜とはいえここは眠らない街なんだよ?警戒心が足りないと思わない?」
「ドナは、行かなかったの?」
「僕は行かないよ。君が来ることがわかってたから」
「……そっか」
タン、とキーボードの軽いエンター音。彼の作業はやっとひと段落ついたのか、ひたすらモニターに注がれていた顔が、椅子の半回転と共にこちらに向けられる。記憶に残っている漆黒の瞳が、やっと私を真正面にとらえた。
「健診、始めようか」
「あ、その前に、ドナにお土産」
「……僕に?なんで」
「いつも診てもらってるから」
彼は小さく肩をすくめて、いいのに。と呟いた。私が手に持っていた、手提げ型の白い紙箱を手に取ると、その上をゆっくりと開ける。……途端、ドナテロは動きを止め、ぎこちない動作でこちらを見た。
中に入っているのは、激甘であることに定評のあるバタークリームのカップケーキ。
動揺した彼の表情には、焦りと、絶望と、喜びと、混乱が入り混じった、それはもう喜怒哀楽のスクランブルが巻き起こっていて……そんな混乱した彼の口から、ひと言だけが零れ落ちた。
「な、なんで知って……」
「ラファから聞いた。お礼したいって言ったら、甘いものがおススメだって。特にカップケーキ」
あー…と呟きながら、彼は小さく頭を抱えていた。何度か深呼吸して、OK,わかった、と繰り返す。それからなぜか「落ち着け、僕。クールに、クールに……」なんて聞こえてきたのだが、小声で言っているからには聞かれたくないのだろう。私は黙って彼のセリフの続きを待った。
「OK,好きなのは本当。……うん、ありがとう」
「今時男の子だって普通にカップケーキもパンケーキを食べる時代だからね」
「そ、そうだね……うん、そうだよ」
彼が何に動揺しているのかは知らないけど、カップケーキくらい好きでも問題ないだろう。ドナテロはカップケーキの紙箱の上を閉じて、冷蔵庫にしまい込んだ。リビングに面しているパソコンデスクから立ち上がった彼に、部屋へと手招きされる。
「もし健診終わって、それでもだれも帰ってこなかったら……二人だけで食ようか?」
悪戯っぽくドナテロは笑った。その笑顔は、見る度にあの大変だった一日を思い出させて、どきりとする。それは悪夢を思い出す意味合いではなく、抱き起されたり、受け止められたり、そうやって助けられた時の凛々しい横顔を一緒に思い出す意味だ。
(全然年下に見えないんだよね……)
身長が高いからかもしれない、知識が豊富だからかもしれない。人間じゃないから――かもしれない。それでも胸の奥が高鳴るのは事実だし、彼の横顔を見ているのは嫌いじゃない。
「……、どうしたの?」
「え?いや、二人だけで食べたら太りそうだなと思って……」
「大丈夫だよ。はあの事件から痩せてるんだから、少しくらい食べたって」
女子に体重の話はしないで!とドナに食ってかかりながら、さっきまでの恥ずかしい考えを頭の隅に追いやって、私は彼の部屋へと入った。
* * *
健診が終わっても、兄弟たちは帰ってこなかった。
(うん、最高だね)
彼らが返ってこなければ、僕はプレゼントされたカップケーキを多く食べることができるし、何より彼女との時間を邪魔されることがない。騒がしいのも嫌いじゃないけど、どちらかといえば比較的静かで落ち着いた時間の方がが好ましいことがここ最近よくわかった。
が持ってきてくれたカップケーキは、いつも食べているものよりも数段甘くて、とろけるような味がする。以前、同じようなものを食べたことがあるのにも関わらず、その時感じたことのないような、脳に直接ダイレクトで伝わるような甘さが突き抜けて……気が付くともう一個、もう一個と勝手に手が伸びていた。
「ドナ、甘いものが好きなんだね」
「……えっ?」
僕とは健診が終わるや否や、リビングの長テーブルを挟んでカップケーキを囲んでいた。向かいに座っている彼女が、コーヒーを片手にくすくすと笑っているのを見て、僕は自分の手元に視線を落とす。
気が付くと、手元にはベーキングカップの残骸がすでに四個ほど打ち捨てられていた。その上、僕の手には食べかけのカップケーキ。
「あの、これはその……」
「いいのいいの。ドナが好きだって聞いたから買ってきたんだよ」
マイキーとかにばれなきゃ、大丈夫だって。と彼女は心底楽しそうに笑っていた。
今までちゃんとかっこいいところを見せられてきたと思ったのに、ここにきてこんな失態を演じるなんて思いもよらなかった。それもこれも、僕が甘いもの好きだってばらしたラファのせいだ。怒りで手が震えそうになるのを、なんとかこらえる。
(絶対、子供っぽいって思ってるんだろうなぁ……)
彼女は、僕からしたら年上の女性だ。いくら身長で勝っていても、精神的な時間を埋めることはできない。たとえば、甘いものに目がくらんだ今みたいに。だからきっと、子供っぽいと思って笑っているのだろう。
大人な彼女の周りには、きっと映画でしか見たことないようなハードボイルドで、クールで……コーヒーをブラックで飲むようなかっこいい人間がたくさんいるに違いない。実際いるかどうかはわからない。彼女は休職中で、家にいる母親くらいとしか接触がないとわかっているから、これ以上調べたって無意味なことだ。
(は、どう思ってるんだろう。甘いものが好きな年下なんて、興味ないかな。……ダメ、かな)
そこまで考えて、僕ははたと我に返った。
(……あれ?ダメって、なにが?)
「……ドナ、大丈夫?もしかして喉に詰まって……」
「ああ、いや大丈夫。何でもないよ」
混乱した僕は、手元のカップケーキをもう一口食べた。脳みそが疲労でおかしくなったのかとも思ったが、カップケーキのおかげで頭に糖分はめぐっている。
――そう、この上なく、十分に。