「あ、そうだ。次は何か、食べたいものある?」
「うーん、そうだな……」
定期検診を終えて、夜も大分更けた頃。ガイズたちの家の前で、私は見送りに出てくれたドナテロを振り返った。いつも健診をしてくれるお礼、と称した差し入れのリクエスト尋ねると、彼は口元に手を添えて悩み始めた。
「……また、カップケーキにしよっか?」
「えっ?」
「ほら、この間は二人だけで食べちゃったから。今度はみんなに」
「ああ、そうだね。みんな甘いって言いそうだけど」
「一回くらい甘すぎてもいいよ」
悪戯っぽい私の笑みを見て、彼も小さく噴き出して「それもありかも」と笑いだした。下水道のコンクリートの床に、私たちの笑いが木霊する。
「あ、それと……美味しいコーヒー豆も持ってくるよ。そしたら多少ましになるでしょ」
「そう、だね。うん、あいつらも少しはマシに食べられると思う」
「違う違う、ドナが好きでしょ。カップケーキと、コーヒー」
「……うん」
心の中でいくつか候補を思い浮かべて、私はドナテロに小さく手を振った。
「それじゃあね、ドナ」
「うん。またね、」
彼に見送られて、私は帰路につく。もうすっかり通いなれた簡素なコンクリートの道を歩きながら、私は目を伏せた。
(あと、何回あるんだろう。健診)
結局、健診の後も遊びに来ていいかとドナテロには聞けないままでいる。もちろん、彼が断わる訳もないとわかっていても、あの大事件の日にできた繋がりがじんわりと消えつつある今、それを言葉に出すだけで怖い気がするからだ。
(はぁ、臆病……)
彼らを助けると決めたあの日は、あんなに大胆なことをしたというのに、ただ一言「これからも会いにきたい」と口に出すくらいなんだというんだろう。わたしはため息をついて、思考を振り切るために腕時計を覗き込んだ。
(あ。忘れてきちゃった……)
健診の時に外した腕時計の存在を思い出して、私は来た道を足早に戻った。
彼らのホームの入り口……半開きの扉が見えて、駆け寄る。
「しつこいよ、レオ!」
「ドナ……」
他人を責めるような声に、私は足を止めた。珍しく声を荒げているドナテロの様子に、入ってはいけない空気を感じて身動きが取れなくなる。
「だが、兄弟みんな……スプリンター先生ですらそう思ってる」
「…………」
「なぁドナ。正直なところを教えてくれ」
(あれ、これ聞いちゃいけない話なんじゃ……)
真っ直ぐに訴えかけるレオナルドの真剣な声に、ただ事じゃない事態を感じないはずがなかった。
腕時計をあきらめて、一歩前に出ていた足を引く。家族の事情に深入りしないように抜け出そうとして……
「……の毒は、本当に完治してないのか?」
――その言葉に、今度こそ完全に私は動きを止めてしまった。
「……後遺症は残らない。これはもう本当に大丈夫だ」
「ああ」
「でも、念のためってこともある。サックスの作った毒が……」
「だが、成分分析は終わってるんだろう?」
「…………」
兄弟の中で二番目に聡い彼の兄は、小難しい理屈で煙に巻かれてはくれない。部屋の中で、ドナテロが息をのむ音が聞こえる。彼はいったい、今どんな表情をしているのだろうか。
「ほ、んとうは……」
(……本当は)
「本当は、もう必要ないんだよ!!」
「……っ!」
悲痛な叫びに、突きつけられた事実に、胸がどきりと音を立てた。うっすらわかっていたことがしっかりとした形となって目の前に突き付けられる。それも、ドナテロの口から。
「でも、こうでもしないとがここに来る理由がなくなる!来る必要がなくなったら、彼女が来なくなったら……外ではろくに会えやしない。もう、会えなくなるかもしれないんだ」
「……ドナ。はそんな奴じゃ……」
「知ってる、わかってるよ!でも、僕が怖いんだ」
扉から漏れる彼の声は少しだけ震えてて、彼に申し訳ないけどその声と言葉を聞くたび……さっきまで私の悩んでいたことが溶けていって、ひどくくだらないことだったのだと気が付いた。
「僕は、亀で、ミュータントで……彼女は人間だ。人間の世界は広くて大きくて、たくさんの男がいる。僕たちも憧れてたから、わかってるよ。すごく魅力的な世界だ。僕は、そんな世界と比べられた時、彼女を繋ぎとめる自信がないんだ」
ガチャリと扉の開く音がする。ドナテロが扉に手をかけている姿を想像して、悲しそうな振り返り姿が安易に浮かんでくる。
「だから、僕は嘘をつき続けるよ。どこまで続けられるかはわからないけど……」
「ドナ……」
「彼女といる時間が、僕にとっては……幸せな時間だから」
そんなつぶやきが聞こえた直後、扉の閉じる音が、半開きの扉を通り抜けてコンクリートの道にまで響き渡る。わたしは動けなくなり、その場で立ち尽くした。
胸が苦しい、顔が熱い。もう私たちはなんて馬鹿のことを考えていたんだろう。お互い、同じようなことを考えて、同じように苦しんで。
「はぁぁ……」
顔を覆って、静かに息を吐き出す。誰に見られているわけでもないのに恥ずかしくなって、その場にしゃがみこんだ。ここがコンクリートの床じゃなければ、体を横たえて転がりたいくらいだった。
「……だってよ」
「っ!?」
顔を上げると、扉に寄りかかったまま優しく笑みを浮かべるレオナルドが私を見ていた。
「い、いつから気付っ……」
「最初から。まぁ、頭に血が上ってたドナは多分気付いてないけどな」
「よ、よかった……」
いや、よくない。猛烈に恥ずかしい。逃げ出したくなる気持ちを押さえて、両手で口を覆ったままおそるおそるレオナルドを見ると……その瞳にからかうような色は見られなかった。
「まぁ、こういうことだ。……あのときみたいな根性見せろよ。オネーサン」
レオナルドの言葉に、私は頷きもしなければ返事もしなかったけれど……私の心の中は、しっかりと決まっていた。