マンハッタンに、引っ越すことになった。夢を追い求めて上京するのだから、もちろん持ち合わせはない。だから、借りた部屋はマンハッタンでも郊外の、古くて狭い洋館の一室。でも私はその部屋が家が嫌いじゃなかった。昔ながらの夢見た外国。それを体現したようなアンティークでレトロな古き良き建物なのだ。
 そして何より面白いのが……

「もしもし」
『も、もしもし?』
「こんにちは、交換手さん。すこし部屋のことで相談があるから、不動産屋さんに繋いでもらえませんか?」
『あ、ああうん。わかった。不動産屋ね。今繋ぐから、待ってて』

 部屋に備わっていた固定電話。それにかけると、『交換手さん』につながる。どうしてつながるかはわからない。昔の日本は固定番号の観念が無くて、こうして交換手さんと呼ばれる人が電話の相手にわざわざつなげてくれたらしいけど、まさか現代のマンハッタンにこういった仕組みがあるなんて驚きだ。……そもそも、アメリカに交換手なんて制度があったかどうかも知らないけど。

(でも番号覚えなくていいし、番号探さなくてもいいから楽なんだよね)

 少しの荷物と少しの伝手と、身一つでやってきた私にはマンハッタンに友達もいないし、相談できる人もいない。だから、話せる人が少しでも多い方が、私は嬉しいのだ。

(今度交換手さんとお話してみようかな。仕事中だから、だめかな)


   *  *  *


「もしもし、交換手さん?」
『こ、こんばんは。今日はその、どこに繋げようか?』
「うーん、どこに繋げればいいか相談に乗ってくれない?」
『えっ?』

 困り果てたわたしは、固定電話の受話器を片手に苦笑した。とはいえ、向こうも困り果てているだろうから笑っている場合ではないのかもしれないけど。

「使っていたパソコンの回線が調子悪くて……こういうときってどうしたらいいのかな?不動産屋さんに連絡するべきか、プロバイダーに連絡するべきかわからないの」
『回線、つながらないの?』
「ええ。今朝まで調子よかったんだけどね」
『……そう。少し、待っててくれない?』
「わかった」

 どこに連絡すればいいのか、確認してくれてるのだろうか。私は彼の言葉を信じて、受話器を片手にじっと声がするのを待っていた。

(どこに繋ぐべきなのか、調べてくれてるのかな?……いい人だなぁ)

 こうして話してみて改めて気づいたけれど、彼はとてもきれいな声の持ち主だと思う。落ち着きがあって、柔らかくて優しい、好感の持てる声。すこしどもっているけれど、逆にそれが愛嬌な気がして、ここ最近は電話をかけるのが少しだけ楽しみになっている。

『……お待たせ。多分、もう大丈夫だと思うよ』
「えっ?」
『建物の回線自体が悪かったから、調整しておいた。多分もう大丈夫なはず』
「……交換手さんは、インターネットの回線も管理してるの?」
『えっ!?あ、う、うんそう!この建物の電話とネットの回線、両方ね。うん、そうなんだ』
「大変そうね。でも、ありがとう。交換手さんに聞いてみてよかった」
『う、うん。また何かあったら、相談してくれていいから』
「そうさせてもらいます」

 照れているのか、微かに上ずった声音が聞こえてきて、私は小さく微笑んだ。電話越しに私の気持ちが伝わるかどうかはわからないけど、なんどかお礼を繰り返した。声しか聞こえない彼を、私は今マンハッタンで一番信頼している。


   *  *  *


「もしもし、交換手さん?」
『もしもし。……どうしたの?』
「……お仕事中にごめんなさい。少しだけ、話を聞いてもらえない?」

 とんでもない深夜に、私は耐えきれず電話の受話器を手に取った。目的はない、繋げる先もないというのに交換手さんの声は今日も優しくて、すこしだけ安堵の息を吐き出した。
 ――仕事でとんでもない失敗を押し付けられて、辞めなければいけなくなった。
 その事実は、一人の私にはあまりにもショックが大きすぎて、泣きながら帰っても到底払拭できるものじゃない。あまりに悲しくて、悔しくて、誰かに聞いてほしくて……私は帰ってきて無意識に電話の受話器に手を伸ばした。

「仕事でね、他の人の責任を押し付けられて……仕事、辞めることになっちゃったの」
『えっ?』
「だれも味方してくれなくて、悔しくて寂しくて、どうしていいかわからなくて」
『…………』
「でも話せる人もいなかったから……貴方しか、話せる人がいなかったから。ついかけちゃった」
『…………』
「名前も知らないのに、こんな話をされて困るよね。ごめんなさい」

 電話の向こうが、息をのむ音がする。当然だろう、突然こんなこと言われたら、どう答えていいかなんて困るに決まってる。でも不思議と、交換手さんの声を聞いたら少しだけ落ち着いて、私は深呼吸を繰り返した。交換手さんに嫌われる前に、この話を切り上げなくては。

『……ドナテロ』
「えっ?」
『……僕の名前だよ。きみは?』
「……

 突然のことに戸惑っていると、電話の向こうで私の名前を復唱する声が聞こえる。

『ほら、これで名前を知合う仲になった』
「……ドナテロ」
『寂しいなら、話してよ。悲しいなら泣いてもいい。僕はいくらでも聞いてあげるよ』

 その声がなだめるように優しくて、声だけなのに頭を撫でられたような気になって、胸の奥に溜まっていた熱いものが喉からあふれ出て……私は泣いてしまう。それなのに、交換手さんはずっと相槌を打ちながら、電話を切らずにいてくれた。

『……きみの元に行って、抱きしめられたらいいのに』

AirCall

(姿の見えない彼に、恋にした)