――ラファエロが、キレた。
しかし、下水道にある彼らの住処に聞きなれた怒声が響き渡ることはなかった。いつもならば、ドスの聞いた低音がコンクリートの壁や床に反響して私の脳内にダイレクトに届くはずなのに……怒声はおろか、彼の苛立った貧乏揺すりの音すら聞こえない。
「あの、ラファさん……どうされたんです?」
普段使わない敬語まで使って、私は目の前のラファの顔をおそるおそるのぞき込んだ。床に正座してる私に対して、彼はただ口を閉ざしたまま目の前で仁王立ちし、こちらを見下ろしている。その高さによる位置エネルギーが、威圧という形で私に降り注ぐ。
「…………」
ラファは答えない。ただいつも怒りにゆがむ口を閉ざして、眉間にしわも寄せずに、ただ目を細めてこちらを見下ろしているだけだ。怒鳴られるよりも何倍も怖い。私はすごすごと視線を床に落とした。
少し前にやりとりをした兄弟たちの声が、私の頭の中にリフレインする。
『なにあれ、あんなラファ初めて見た』
『えっ?は、初めてなの……?』
『うん。なにあれ、スゲー怖ッ!僕しーらないっ!』
『アイツが黙って怒るなんて……、なにしたんだ?』
『なにって……』
――男友達と徹夜カラオケしただけですけど。
――そいつと別れるところを、ラファに見られただけですけど。
威圧に負けてそう言い訳できずに、私はきゅっと唇を引き結んだ。
(だって仕方ないじゃない、超貴重なマイナーバンド語りの仲間なんだよ。それに、彼には超ラブラブな彼女がいて、私なんてそれこそ本当にただのガールなフレンドなだけで……)
そこまで言い訳を頭の中に浮かべたけれど、まるで浮気を必死に言い訳する彼女のようになっていることに気づいて、作戦を一度白紙に戻した。
黙っているラファの心中がどうなっているか想像がつかない。言い訳したキレられるのか、それとも無言で投げ飛ばされるのか。というかどうして私は正座で怒られているのか。
(この空気……もう耐えられない!)
私は正座したまま、少し前の床に両手をついた。綺麗にそろえられた手の上に、勢い良く頭をぶつける。ジャパニーズドゲザというやつだ。
「ごめん!ラファ!!」
「…………」
「実はよくわかってないけどなんかごめん!とにかくごめん!」
「…………」
「ごめん、本当にごめんなさい!何でもするから許して!」
そこで初めて、直立不動だったラファに変化が起きた。頭上で、明らかに息をのむ音がしたのだ。私は即座に「これだ!」と判断して、今度は思い切り頭を上げて、ラファの腰布にすがりつくようにして見上げた。
「なんでもする!ラファの言うことなんでも聞くから許して!」
「っ……てめぇ……」
眉間にしわを寄せたラファは、息をしばらく止めてから……たっぷりと深い深いため息をついた。
「……その言葉、他の奴に言ったらぶっ飛ばすからな」
「……は?」
服の胸ぐらを掴まれて、荒っぽく持ち上げられる。足が宙に浮いた。遠かった視線がぐっと近づいて、勢いのままキスしてしまうんじゃないかと勘違いしそうになった。もちろんそんなことはなくて……近づいた私は、あることに気がつく。ラファの表情に浮かんでいた感情は『憤怒』ではなく『呆れ』だったのだ。
「ラファ、怒ってないの?」
「怒ってねぇよ。……俺の悪いトコなんだろ」
サックタワーの一件のことを反省しているのか、ラファは苦虫をかみつぶしたような表情をしていた。どうやら、憤怒に身を任せないキャンペーン中らしい。
「……じゃあ、なんでもしなくていいの?」
「すんな。あと他の奴にも言うな。絶対にだ。あとアイツ誰だよ」
「なんで言っちゃだめなの?」
「なんでもだ。てめぇ、『なんでもする』を安売りしすぎだろ」
「他に差し出せるものがなかったもんで」
「っ……あのなぁ……」
ラファは眉間に太い指を添えながら、ため息をもうひとかたまり吐き出した。そうしてやっと降ろされて、私の足裏が床に付く。
「で、アイツ誰だよ」
「マイナーなバンド好き仲間。アイツ彼女いるよ」
「知るかよ」
「ちなみに徹カラ帰り。レッド●ル飲みまくった。……なんで?」
「なんでもねぇよ」
私が首を傾げると、ラファは明後日の方向を向いて頭をかいた。逃げるように歩きだしたラファの後ろで、私は歩幅を会わせてついていく。
「なんでもないってずるくない?私、ラファの質問に答えたよ?アイツのこと話したじゃん。次は私の番だと思わない?ねぇ、なんで『なんでもする』って言っちゃだめなの?ねぇ、なんで?」
なにも言わないラファの背中に、わたしは言葉の弾丸をぶつけまくった。投げかける質問は本当に気になっていることだし、彼の憤怒に身を任せないキャンペーンがどんなものか見たかったというのもある。
「ねぇ、ラファ?なんで――……」
ラファがこちらを振り向いた途端、また胸ぐらを掴まれて世界が反転した。瞬きをした次の瞬間には背中に冷たいコンクリートの壁。目の前にはラファエロ、逃げ場がないようにと左右は彼の両手にふさがれている。
「こういうことになるからに、決まってんだろうが……!」
彼の言葉が『なんでもするって言っちゃいけない理由』の答えだということを理解するのに、私はたっぷり十数秒を必要とした。
目の前のラファの瞳はギラギラと輝いていて、何かをこらえるように歯を食いしばっている。鼻から吹き付けられる風に、彼が怒りをこらえていることに気がつくと……私の心臓がいつもより速い鼓動を刻みだした。ただ、こんな甘酸っぱい展開への対応スキルがない私は……ラファを見上げて、口を開く。
「お、怒らないキャンペーンはどうしたの?」
「うるせえ!!怒らずにいられるわけねえだろ!」
「……なんで?」
こてんと首を傾げると、ラファのこめかみに青筋が浮かんだ。
「てめぇのことを好きな男に、なんでもするとか言ってんじゃねえぞ!どんだけガードが甘いんだよ!!」
ぱちくり。目を瞬かせる。私の反応にラファも我に返ったらしく、息を飲み込んで勢いよくきびすを返す。
とっさに、ひるがえった赤いハチマキの先端を掴んで引いた。
「ぐっ!てめっ、、離しやがれ!」
「え?普通にいやだけど」
「なんでだよ!」
「もっかい言って欲しいんだもん!」
ラファが前に進もうとする。私が後ろから鉢巻を引いてラファを止める。ぎりぎりと首対両手で力比べ。彼は逃げたくてしかたないようで、私は彼の顔が見たくて仕方なかった。
「ラファ、もっかい!」
「言わねえよ!」
「もっかいもっかいもっかいもっかいもっかい!!」
「うるっせえええええ!!」