――もういいや、飛んでしまおうか。
 そう思い立ったのは、定時間際に仕事を押し付けられたそんな時だ。昨日も一昨日もそのまた前の日も、毎日毎日毎日、あの人たちは悠々と定時に帰るのに、私はいつも会社の戸締り。終電、終電、たまに逃して会社にお泊り、また終電。

「風強いなぁ……」

 会社が入ったビルの屋上で、フェンスを飛び越えて屋根の縁へ。私は綱渡りをしている気分で缶コーヒー片手にフラフラしていた。街のネオンを階下に眺めながら、眠気覚ましの真っ最中。目は覚めたものの、仕事の閃きは降ってこなかった。

「終わんないし!なんも思い浮かばないし!!」

 誰もいないのをいいことに、私は腹の底から声を出して叫んだ。脳細胞は死滅して、言葉の通り何も考えられなかった。
 疲れきった頭の中で、私は上司にこき使われる可哀想なシンデレラ。そんな悲劇のヒロインを気取りたくなって、とりあえず形だけでも入ろうと屋上に来てみたものの……得られたものは虚無感だけだった。私は屋上の縁に座って盛大にため息をつく。

「さみし……戻ろ……」

 冷たい風を全身に浴びて、現実逃避完了。私はよっこいしょ、なんておっさんくさい掛け声と共に立ち上がった。
 ――その、瞬間。一際強い風がフェンスの網目を通り過ぎ、私を煽った。立ち上がっていた身体でそれを受けて、ビルの外へと投げ出される。スローモーションの視界が、屋上から遠ざかって行く。

(……えっ?)

 屋上が遠ざかって、ビルの壁が視界の下から上にせり上がってくる。いや、私が落ちているのか。ぞくり、なんて程度じゃすまない寒気が全身を覆って、鳥肌がたった。

(――落ちる、死ぬ)

 簡単な単語が頭をぐるぐるして、涙がこみ上げる暇もない。走馬灯もない。ただ壁と窓ガラスが交互に視界を横切るだけだ。

(どうしよう、どうしようどうしようどうしよう!誰か!)

 ――悲劇のヒロインなんだから、助けてよ!
 そんな最高に惨めな一言を頭の中で叫んだ途端、私の身体は落ちるのをやめた。

「っ……!?」

 横になったままの身体は誰かに抱えられて、会社のビルより小さな建物の屋上へ着地した。人生初のお姫様抱っこに、戸惑いながらも顔を上げる。ひらりと風に舞うのは、ビル街には不似合いな明度の高い黄色。

「ヒュウ!空から美人が降ってくるとか流石ニューヨーク!」

 私を抱えるその人を見た瞬間、私の顔はひきつった。ビルから漏れるライトに照らされた緑の顔、人間らしからぬ丸い骨格、背中にしょってる大きな甲羅、そしてたなびく黄色のハチマキ。
 ビルから落下してるところを助けてくれてありがとう?いやいや、なんで助けられる人間がいるの。そもそも、よく見て見なさい私。これはどうみたって――

「に、人間じゃない!!」
「あっ、ビックリさせちゃった?ごめんごめん~!でも危害加えないよ?むしろ助けたし!ね?」
「ご、ごもっともです……」
「でしょ!いやぁ、やっぱ美人はわかってくれるもんだね!」
(ってなに納得してるんだよ私!このあと食べられるかもしれないんだぞ!)
「どう?さっきの僕の颯爽とした登場!なかなかかっこよかったっしょ?」
「おい、馬鹿!なに普通に姿見られてるんだよ!」
「え?いいじゃん別に!」
 
 ビルの影から、また違う声がする。会話を交わしていることから、どう考えも仲間だ。しかも、どう考えてもこの流れなら、姿を見せない彼もきっと人外だろう。
 頭の中であれこれ考えるも、連日の疲労と、突然の自殺未遂と、突然の人外王子様の登場に、私の脳みそはキャパシティオーバーだった。

(ええと、この人は人間じゃなくて、でも私を食べなくて、助けてくれて、颯爽で、危害を加えなくて仲間がいて……?)

 ひとり、ぐるんぐるんと思考の海に覚えれていると……私をお姫様抱っこしたままの彼は、物陰に向かって唇を尖らせた。

「もう、横槍いれないでよね。レオ!今、僕いい感じに王子様してるんだから」
「……王子様?」

 私の言葉に、彼はこちらを見る。目を輝かせて、胸を張り、満面の笑みを浮かべた。

「そう!僕は王子様!君を助けた、颯爽でカッコ良くて、そして最高クールなプリンスだよ!」

 王子様のウインクを見た途端、糖分不足な私の頭は考えるのをやめた。なるほどこの人は、上司に仕事を押し付けられて馬車馬のように働くかわいそうな悲劇のヒロインである私を助けてくれたクールな王子様なんだ!疲れ果てていた私は、すがる思いで王子様に抱きついた。

「助けてくれてありがとう王子様!そしてよければ私をここから連れ去って!!」
「えっ、マジ!?いいの!?」

 仕事も立場も、人間社会からも連れ去って助けて!そういう意味合いを込めて全力で抱きつくと、彼は自信に満ちた笑みを浮かべて私を抱きしめ返した。

「オーケイ、プリンセス!最高にヒップホップでクールでタートルなこのプリンスに任せておいて!」

 おい、マイキー!なんて物陰からの冷やかしなんのその。彼は私をしっかりと抱えなおすと、身軽なジャンプでビルの谷間を飛び越えた。

(最近の王子様はヒップホップを嗜んでるのね、よく分かんないけど最高にクールだわ!!)

お願い、プリンス!

(もう人外でもなんでもいいので助けてください!)