社会人というのはとてつもなく優位な位置に立っている。
それは広いこの世界における社会的立場の意味ではなく、この狭い亀たちの地下世界という、とてもなく小さな社会に限定される。しかし、ティーンエイジャーばかりの彼ら和の中で、働いているという年齢的優位を持っている私は(財力的)ヒエラルキーで例えるなら神に近い存在だ。
そしてそんな小さな世界の神である私も、結局のところはただの人間。友人として彼らにあれこれ食べ物を差し入れたりするものの、そこに贔屓という色眼鏡が入ってしまうのは致し方のないことなのだ。
つまり、それによって起きうる現象というのは――……
「ラファばっかり食べ物もらってずるい!!」
――こういうことである。
私の前にやってきたマイキーは、いーっと口を横に開いて歯を食いしばることで私に『悔しい』のアピールをしてくる。
さっきまでマンガを読んでいたベッドの上から出張してきてもらって悪いが、マイキーの言葉の意図が、私には微塵もわからなかった。というポーズを取っておく。
「ああ、うん。そう?」
マイキーに気のない返しをして、私は目の前にいる二周り以上大きなラファエロにスプーンを差し出した。その浅い半円場の食器の先にはとろみのある黄金の半個体が――言ってしまえばただのとろけるプリンなのだが――震えている。
「お、おい。自分で食える……」
「だーめ。はい、あーん」
「、お前な……」
「それだよ!それ!!それがずるい!!!」
目尻に涙を浮かべたまま恨めしげな視線が向けられるが、残念ながらそのかわいい姿は私のハートに刺さらない。私の管轄外だ。
同じ空間の中で、無心にキーボードを叩いていたドナの手が一瞬止まる。顔をこちらに向けないままだが、飛んできた声から呆れがにじんでいた。
「あきらめなよ、マイキー。のラファ贔屓は今に始まったことじゃないだろ」
「そうだけどさぁ、露骨すぎるよ!」
「マイキーお前……露骨なんて言葉よく知ってたな」
「ちょっ、バカにしすぎじゃない!?たとえレオでも許さないぞ!」
一方的にマイキーがレオにつかみかかるのを見送って、私はまたラファにスプーンを差し出した。
「はい、あーん……」
「、兄弟にもやってやれよ……」
「この間、ポップコーン差し入れたから大丈夫だって。それとも、ラファは私が他の人にあーんってしててもいいの?」
「うぐっ……」
声が詰まって困ったように視線を泳がせている彼に、私は満足してまたスプーンを差し出す。ラファのためだけに買ってきた、産地直送ジャパニーズとろけるプリンは、まだ半分以上「あーん」されるのを待っていた。
* * *
「……ん」
「ん?」
「……やる」
「んん?」
差し出された彼のテーマカラーと同じ色の柔らかな布に、私は動揺を隠しきれなかった。これは見たことがある。彼らが『ハシ』と呼んでいる修行……ないしは罰の時にできる副産物。ラファエロの罰である「三輪車に片足立ちしながらマフラーを編む」のマフラーだ。
顔を逸らしている図体のでかい彼は、大きな手に収まっているその布を私にまっすぐ差し出している。
「これは?」
「やるっつってんだよ!!」
どん、と真っ赤なそれを胸に押しつけられる。時期からややはずれているが、ラファからのプレゼント。
胸の中が焼けるように熱く、興奮で鼻血が出そうになるとはまさにこのことだと私は実感していた。むしゃくしゃする。うれしすぎる方向でムシャクシャする。女性であることを放棄するような暴れ方をしたい。そんな気持ちだ。
「ラファの手編み!?!?」
「……そうだよ。文句あるかよ?」
「これっぽっちもありません!!!」
マフラーを首にかけて、横に垂れるそれの表面に顔を埋めた。ゴツい手から編まれたものとは思えないほどそれは精練されていて、均等な編み目がきっちりと並んで最高の肌触りだ。
私が頬ずりをしてると、戸惑い気味の低音がぼそぼそと聞こえてくる。
「いつも兄弟以上にもらってんだろ。……その礼だ」
「ラ、ラファ……私が勝手にやってるだけだから、気にしなくていいのに……」
「気にしないわけにはいかねえだろ。お前のが年上っつっても、女だし。ずっともらいっぱなしってのもな……」
「それでマフラー?」
「やれそうなもんなんて他になかったんだよ!」
ああもうこの亀さんは。そのでかい図体でそばにいてくれて、あーんさせてくれるだけで満ち足りてるというのに。お礼までしてくれるなんて。
「他に、なんかねえのか?」
「他?……他にリクエストしていいの?」
「どう考えても、それ一つじゃつりあわねえだろ。とはいえ、もうやれるもんなんて思いつかねえし」
ばりばりと後頭部をかく姿に、私の頭は発火間近まで熱を持つ。あまりの感情の高ぶりに頭の中がショートしないよう、必死に歯を食いしばって考えた。リクエストを考えて、テンションの高いまま私はラファを見上げた。
「ほっぺにちゅーして欲しいです!」
「………………ハァ!?」
「ちゅー!!それだけでいい!一回でいいから!!」
「…………」
はぁはぁと、ちょっとおまわりさんを呼ばれそうな荒い息づかいを繰り返しながら待ってると、ラファは二十数秒くらいたっぷりと戸惑って……呟いた。
「横向いてろ。絶対こっち向くなよ」
「うん!」
体に対して、痛くなるほど首を正面に対して90度曲げて待機する。
すると、首に掛かっていたマフラーがぐいと引かれて……私はつい、反射的に、正面を見てしまったのだ。
「……!」
マフラーを引いて雑に頬にキスするつもりだったラファと、正面から接近して……一瞬だけ。唇が触れた。
「ばっ……!!」
「…………」
「ぜってえこっち向くなって……!!」
ラファの顔が、頭半分覆っているはちまきと同じ色になる。未だかつて見たことのない表情に、むずむずと胸のあたりがかゆくなる。
私は一瞬触れた唇を両手を押さえた。いや、口元を押さえたのはキスが原因じゃない。にやつく顔を必死に隠そうとしたからだ。
(ああもう、次はなにを買ってきてあげたらいいんだろうか。A5ランクの牛肉?高級本マグロ?っていうかこの亀は私にどれだけ貢がせる気なんだろう?破産させる気かな?)
これだから、ラファエロを贔屓するのをやめられない。
もはや嗜好品。たばこや酒なんかよりも、よっぽどキク、恐ろしいものだ。
「ラファ。私はこれからもラファを贔屓するよ。うん、絶対贔屓し続ける」
「……は?」
「だから、もう一つだけお願いがあるんだ。ワンモアリクエスト」
「ぜってえ、いやだ」
「お願いします!!もう一回だけさっきの!!」
「ぜってえ!!しねえ!!!」
「牛貢ぐから!!!マグロ貢ぐから!!!」