突き出された一回り大きな拳を、言われたとおりに右の手のひらで受け流すように弾く。力のこもった拳は、わずかに私の手のひらを打っただけで、するりと虚空へと突き出される。それなりにうまく交わすことができ、緊張で止めていた息を小さく吐き出した。
「次、行くぞ!」
凛としたレオナルドの声に背筋がピンとのびるものの、安堵した隙をつくように次の一撃が繰り出される。突き出された拳の風圧で、前髪は左右にかき分けられ、阻むものがなにもなくなった眼前ぎりぎりで人ならざる薄緑の拳が止まった。
「っ……!」
「あっ、す、すまない……!」
私が息をのんだのを見て、レオは慌てて拳を下げて私の肩を優しくつかんだ。そして、体のあちらこちらを見回してから、ついさっき寸止めされた額の辺りをまじまじとのぞき込まれる。その近さに、どきりとする。
「大丈夫だったか?本当にすまない。きみに教えるために組み手をしていたっていうのに、鍛錬だと思うとつい……」
「だ、大丈夫だよ、レオ。そんなに心配しなくても……」
「そうそう、レオの鍛錬病は今更だよねぇ」
「いちいち、ひと挙動が終わる度に心配してたら、いつまで経っても進まねぇだろうが」
「マイキー、ラファ。心配しすぎなことなんてあるわけがないだろう。は人間なんだぞ」
(でも、本当にこのままじゃ進まないんだけどなぁ……)
気持ちが嬉しいと思いながらも、たしかにこのままじゃ私が護身術を身につけるのには途方もない時間がかかってしまいそうだ。
なぜ、レオに護身術を教えてもらうにいたったかというと……
『痴漢にあった!?』
『あってない、あってない』
『どこで、いつ!?』
『レ、レオ、落ち着いて……』
『……今日の帰り、バスの中で。……違う?』
『ドナ見てたの!?』
『ただの予測。ここに来るまでのコースで公共機関はそこだけだから』
学校からの帰り、ガイズたちに会いに行く途中のバスで隣の女性が被害にあっていた。それを同乗していた警察が現行犯で逮捕し、連行する場面に出くわしただけだ。だというのに、話を聞いたレオは顔面蒼白になって慌てだしてしまった。
『だめだ、俺が24時間見ていられないことが心配で……』
『だったら、護身術でも教えてあげたら?』
パソコンを見ながら投げやりにつぶやいたドナの一言に、レオの目が見開かれた。
『それだ!』
――そうして、現在に至るわけだが。
「うーん、難しいな……」
「考えてすぐに動ける訳じゃないからな」
レオが賢明に教えてくれるけれど、私の把握能力がいまいちなせい(と、一回手合わせする度にレオに心配されて中断されるせい)でなかなか進まない。
道場で手合わせしている私たちを、ラファとマイキーは道場の入り口から野次馬として眺めている。キーボードをたたき続ける音がするから、ドナはいつものパソコンの前だろう。
「レオって意外と教え下手?それとも、がわかんないだけ?」
「う……ごめん、レオ」
「1日でできると思っていないさ。謝らなくていい」
苦笑するレオに、ずきんと胸がわずかに痛む。期待にこたえられないことが申し訳なくて、私はついさっき習ったことを頭の中で再生しながら虚空を相手に何度も素振りをする。
「つーか、教えるものが悪いんじゃねえのか?」
「えっ?」
「護身術として型を教えてもしかたねえだろ。相手が正拳付きしてくるわけじゃねえし」
道場の入り口で頬杖つきながら横になっている野次馬その1の言葉に手を止める。
「おい、。今からオレ様の言うようにやってみろ」
「ラファ、なにを……」
「レオ、お前も今から言うようにやれよ」
やけに真剣な彼の声音に、レオも口を閉じてしまう。
「レオ、の正面から胸ぐら掴め」
「……すまない」
一言つぶやいて、レオの大きな手が私の首元の服をぎゅっとつかんだ。イメージとしては、そのまま車にひきずりこまれる、といったところだろう。私がじっとラファの指示を待っていると、口端をつり上げた彼は私の視線に答えてくれた。
「、お前は両手で相手の手をしっかり掴め」
「……うん」
「そのまま、その腕を抱え込んで……体をひねる。レオを背負うつもりで後ろを向いて、上体を前に倒す」
「どうしたのラファ、珍しくマジじゃん!」
(……というか、これ背負い投げ?)
体をひねったまま動きを止める。訝しげにラファを見ると、彼は小さく首を縦に動かした。
「思い切りだ。それと、体をひねったときに左足を引け」
「お、おい、ラファ……」
「レオ相手だからって遠慮すんな。まぁ俺らはどうせ重さで持ち上がらないから、人間相手にしてると思って遠慮なくやれよ」
「わかった!」
言われたとおりに体をひねって、指定のタイミングで左足を引く。思っていたより鮮やかに体をひねることができて、レオの筋肉質な腕をしっかりと胸に抱えて背負い投げしようと上体を倒した。
……とはいえ、レオはふつうに人間よりずっと重い。思い切り背負おうとしたところで、ぴたりと体勢は止まってしまう。
腕を抱え、きっと人間相手ならこのまま背負い倒せる。そんな完璧な防衛が決まった一瞬だった。
「……どう!できてる!?」
自分としては、完璧だった。鮮やかな身の返しは、テレビでみた格闘化のようだったからだ。
「……あー……」
「おー、完璧だな。言うことなし」
下を向いたままの顔で、必死にラファたちの方に視線を向ける。口を押さえたままやけに笑顔のマイキーと、深くうなずくラファの姿が見えて、私は誇らしげな気持ちになった。
しかし……
「っ……!!」
「……レオ?」
後ろからはレオの息をのむ音が聞こえて。私はわずかに眉間にしわを寄せる。
「どうしたの?」
「…………ってる…………」
「ん?」
「……当たってるんだ!当たってる!」
「……は?」
訳が分からずに私が訝しげに言葉を吐き出すと、その瞬間、見ていたマイキーがブフッと派手な音を立てて吹き出した。
「……当たってるって、なにが?」
「っ、いいから、一度離してくれ!!」
「ええっ!上手くできたのに!」
「ラファ!!!!」
背負うために抱えていたレオの手を離すと、ばっとすぐさま手を引かれる。その腕をさすりながら、レオは複雑そうに顔をしかめていた。ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながら、顔を真っ赤にして道場の入り口を睨みつける。いつの間にか、そこにいた野次馬たちは消えていた。
「あいつら……!!」
「ね、レオ。もう一回やっていい?」
「……は!?」
「え?さっきのそんなに痛かった?変にひねっちゃってた?」
「い、いやそういう訳じゃないが……」
さっきの完璧に決まったときの満足感が忘れられなくて、再度お願いをすると、レオは顔を真っ赤にしたまま顔をひきつらせた。
「……。やめよう」
ぽん、とレオの大きな手が私の両肩を優しく包み込む。諭すような穏やかな声に、首を傾げる。
「……なんで?」
「きみは俺が護る……これでいいだろう?」
レオの透き通ったスカイブルーの瞳で見つめられ、鼓動を跳ねて息が詰まる。そんな真剣な顔でいわれたら、断れるわけがない。大好きなレオにこんなことをいわれて断るなんて選択肢はそもそもないけれど。
「うん、レオがそうしてくれるなら」
私が笑顔で答えると、レオははにかみながら強く頷いた。なにをそんなに気合いが入っているのかは知らないけれど、レオがうれしそうならなによりだ。